さっき、ごはんを食べて、いつものごとくぽけら~としながらも、ち
ょっとばかし、人間に共通している傾向とか行動ってなんだろなぁ‥
なんてことを考えていました。
ぷかぁ~ぷかぁ~と思いつくものを頭の中で並べていると、その中に
「ウソをつく」ということがありました。「ウソかぁ‥」とまた思い
めぐらせていると、ムクムクゥっと昔の記憶が現れてきました。
それはわたしが10才の頃のことでした。テレビか絵本か何かで、く
まのぷーさんが、とろ~り半熟の目玉焼きをスプーンですくって食べ
ているのを見たのです! 目玉焼きをスプーンで‥! それがまたす
んごぉーくおいしそう。なんてこったぁ外国は‥!
お箸こそきちんと使えるようになったものの、まだフォークといえば
スパゲッティ‥、大きなスプーンはカレーライス‥、にしか使ったこ
とのないような子供にとって、それはかなりの衝撃的映像、大げさに
いうとまぁ、カルチャーショック!だったのでした。
後日、たまごを調理しようとしていた母親を見て、わたしはすぐさま
目玉焼きを要望し、それも「半熟、なるべく黄身が固くないやつがい
いねん。」と念を押しました。で、出来上がったそれは、もうほぼ完
璧。そしてさぁ、ここからいよいよっ! ‥でもその前にせっかくだ
から母にも教えておいてあげようと、用意したスプーンを片手に意気
揚々と‥
「知ってる? 目玉焼きってな、外国の人はな、スプーンで食べるん
やでー。」
しかし、返ってきた言葉は
「そうよ。 外国ではみんなそうなのよね。」(←目をそらして)
。。。。。
「ウソだ、ぜったい、ウソついてるぅ。」(←こころの声)
この時ピピッときたのは、欧米人が実際にスプーンを使うか否かとい
う問題ではもちろんなく、外国に行ったこともなく、雑誌も映画もほ
とんど見ないような母が、さもそれを知っているかのごとく答えたこ
とについてである。
だいたいその時やってみたけど、切りにくいし、スプーンに乗っける
と白身の部分がヨレヨレしちゃって、すくいづらいし、おまけに大切
なトロリン黄身ちゃんは、スプーンにべっとりとくっついて固まって
しまうのである‥。箸の方がよっぽど口に運びやすい。
「あぁ、、、なんや、食べずらいやん!」(←こころの声)
みごと期待は打ち砕かれ、目玉焼きの味というものにさほど変わりは
ないにしても、なんとなく不満が残ってしまって、ちっともおいしく
なかった。そしてまた母の知ったかぶりというのも、おいしくなかっ
た‥。
もぅ、なんで子供にいいとこ見せようとするんでしょう‥? もはや
地球上でたまごをスプーンで食べる人がいたって、ぜんぜん構わない
けど、あのちょっと気取った声‥、他人ならまだしも(?)親子だと、
それはある意味けっこう痛かったですわ‥。
だからわたしにとってこの「くまのぷーさん目玉焼きスプーン」のこ
とはイコール「母の見栄」として記憶に残ってしまっているのです。
もう今はすっかり笑い話にできますが‥。だって、もしわたしの方が
勘違いしてるとしたら、母親も同じぷーさんの絵を見て、同じふうに
思ったってことも、ありえなくはないですから‥。
でも、やっぱりウソはいけませんよね。
あ、また思い出しました。中学の時に仲良しだったある友だちは、純
粋な心をもっていました。が、わたしは当たり障りのない日常会話の
中で、よくいたずら心から、ちっぽけなウソを織り混ぜて話をしたも
のです。ですが、その子はすぐ、「えーそうなんー? 大変やなぁ‥」
などと、ほぼ100%信じてしまうのです。
こちらとしては、そのウソを見抜いてくれるかなという、いわば冗談
のつもりなのですが、その子にはまったく通じません。いつも決まっ
て「えー、そうなんー? へぇー」という返しなのです。さいしょは
「ウソやでー。何で? わからんかったー?」とからかっていたので
すが、それが何度もくり返されるうちに、つまらない‥というよりも、
その子の疑いのないキレイな心に、だんだんと感心するようになりま
した。
それはまた、同時に自分のくだらなさをも見ることにもなり、だから
「あ、もうこの子には、しょーもないウソついたらあかんわ‥。」と
思うようになりました。
相手にとってその内容がうんぬん‥ではなく、いくら軽い冗談でも、
その人が気づかないように騙すようなウソをつくことは、いずれお互
いの信頼にひびが入ることになりかねません。そう、みなさんもあの
<ウソつき少年>のようにはなりたくありませんよね。
何気ない友人同士の会話にだって、やっぱりその奥底には信頼という
ものがあるはずです。‥でもじゃぁウソって、全部が全部、いけない
んでしょうか‥?
あ、また思い出しました。うちの兄は、よくこの冗談めいたウソとい
うものを妹に対して、長年に渡って試みた人物です。いたずらのよう
なものから、いじめのようなものまで色々とありました。が、しかし
妹もアホではありません。学習しました。それを見破るコツを!(ブ
ラボー!)そしてそれまたほぼ、百発百中!
兄がウソをついていると、鼻の先が赤くなり、穴がフフっと広がる時
があるのです。真面目な顔をつくり、本音をこらえて口を閉じるかわ
りに、きっと鼻だけで息をしてしまうんでしょう。だから何か云われ
てもジッと兄の顔を観察して、そのうち鼻の穴がフフ‥とするのを見
届けたなら、こっちのもんです。相手にせずに「ウソって知ってるも
んなー。勝手に言っときー。」で終わり。
「ほんまやぞ!」といくら彼がすごんで云ってきても、それまた「ハ
イ、ソレハホンマデハアリマセン。」という意味なのです。
「おまえ~っ! なんでわかんねん!? なんでやねん!?」としつ
こく聞いてきたことがあったので、やさしい妹がしぶしぶとその鼻の
穴のことをせっかく教えてあげたというのに、学習しない兄は、結局
その後も相変わらず鼻をフフとさせていました‥。
ん~‥じゃぁ、相手が気づくような、思いやりをもった冗談やウソな
らいいってことですかねぇ‥。ほら、漫才なんかはそれがベース、暗
黙の了解というものがあるから、おもしろかったりするんですかねぇ
‥?
たぶん言えるのは、会話の底に優しさがあるかどうかですよね。それ
は信頼でもあるだろうし、愛でもあるだろうし‥、だからやっぱり自
分だけをよく見せようとか、自分を中心とした裏の企みがあると、そ
れは汚いもの、相手を傷つけちゃうことにもなるのかもしれないです
ね。
あ、また思い出しました。<走れメロス>は単なる友情のお話ではな
くて、自我の葛藤と相手への信頼という問題をよく描き出した物語だ
ったなぁと‥。
そっか、反対にほんとうの信頼や優しさや愛のもとでは、ウソが必要
な時もあるかもしれなくて、もし正しいウソというものがあるとした
ら、それはその奥にあるものが愛か、自己かで解るってことですね‥。
あ、また思い出しました。ナチュラルメイクなどというものが世間で
唱われ始めた時代、わたしが19才のころ、「ナチュラル‥そうだ、
自分に素直になろう!」と、いきなり口紅もつけず、ノーメイクで学
校に行ったら、すぐに友だちが寄ってきて云った、
「なぁ、なんか顔色わるいで~、大丈夫か~‥?」
(!)
いきなりはまずかった‥? まぁ、少なくとも相手に心配や違和感を
感じさせない、心配りは必要だということでしょうね。ま、今はもっ
ぱら、すっぴんで通しちゃってますが‥。
それでは、またお会いしましょう。