ゆるむるぅむ ~ yurumuroom

 

秋です。今年はちょうどいい感じに実をつけたうちの果樹たち。栗の
木にはまんまると大きなイガイガ栗がなり、コロコロと毎日少しずつ
とれて、2,3日待って両手いっぱいぐらいの数になったら、小鍋で
煮てホクホクと食べてました。

そして柿の木には、3年ぶりにまぁまぁの大きさのが18個。熟しすぎ
ないように色づき具合をみて、皮をむいたらシャキシャキとりんごの
ように丸かじりするのが、とてもおいしいです。

また外をひょこひょこと歩けば、いろんな秋の色が見つかります。道
ばたの草花からは、ふわふわと鼻をくすぐるような甘い香りが風にの
って漂ってきたり、そう、秋はだんぜん空気がおいしいのです。適温
で抵抗もなく、からだ全体で大気を呼吸しているような感じがします。

しかしそんな秋の日々も、太陽の光眩しいさわやかな秋晴れかと思え
ば、急に冬を思い出させるような、どんよりとした曇り空や冷たい雨
だったり‥。こんな移ろいやすい季節は、気分もまたお天気に左右さ
れたりしていませんか? 

確かに気圧の高低によって体内に生じる、微妙に感じられる違いとい
うのはあるものですが、どうか、頭の中でそれを自分の感情と混ぜて
ぐちゃぐちゃにしないようにしましょうね。ややこしくなってしまい
ますから。

もしなにか気がかりなことや問題があると感じるのなら、たった今す
ぐ、それをきちんと調べるか、またはそれをメモ書きして、しばらく
の間それから遠ざかりましょう。けれど、どちらにしても<静かで落
ちついた精神>というのは必要です。

先月も、何かに対して不安を感じてしまった時、そこに隠されている
挑戦を受けるか受けないかはその人次第、でもそこでは既に、何かが
生じていて、それを理解するには「注意」と、またエネルギーも必要
だ‥と書きました。

が、この「注意」というのは、意志によって強制したり、コントロー
ルすることではありません。間違えやすいのですが、どうぞここにこ
そ「ご注意」ください。

なぜなら「気をつける」ことをいちいち命じる自分がいる時、それは
片寄った視線で何かを区別したり選別しようとする思考が働いていて、
断片的なものになってしまうからです。それでは完全な「注意」はな
く、理解もありえません。

「注意」とは、ただきちんと醒めて、見て、聴くことです。

普段何かを見る時に、いちいち「これを見ろ」「あれを見ろ」などと
自分に言い聞かせたりはしないでしょう? 目をやると、思考を介さ
なくてもその光景を、きちんと捉えることができます。心理的な「注
意」もそれと全く同じことです。心の中を見てみるのです。 

でも、心も身体もワサワサとせわしなく動きまわって、次から次へと
何かに追われていて、いつもギュウギュウの状態では、どうしたって
中途半端になり、ちょっぴりチラ見しているに過ぎません。

というわけで、<静かで落ちついた精神>に非常に深く関わっている、
心の<静寂>について、少々‥。

心の<静寂>というのは、まるで「死」のように全ての機能と活動が
終わってしまった後の、何の動きもない、終了の静けさではありませ
ん。

それは、エネルギーを生み出すエンジンが、ニュートラル(0)モー
ドになっているようなもの。停止‥今は完全に止まってはいるけれど、
また機能したり動くこともできる‥そんな感じの静けさだと云えるで
しょうか‥。

休止、休憩、休暇‥。少し立ち止まってみて、自然を眺め、全てのこ
とから解放されて、空っぽになる。そして実際にくつろぎを感じるこ
とで生まれてくるそのゆとりから、自分のこと、そして周りのことも
全体的によく見回すことができる‥。

それから、ゆとりというのは時間だけでなく、スペース‥空間の意味
も含みます。そういう思考も自我も何の束縛もない、空っぽのスペー
スを、想像ではなく、自分の中にほんとうに見つけることが大切なの
です。

それは壁で仕切られたちっぽけな個人のスペースではありません。何
の仕切りもなく、空っぽだけど、だからこそ全部を含んでいる広大な
広がりです。

夜のしじまのごとく、決して激しくはないけれども、実は生命の根底
を為している、その力強く、活き活きとしたエネルギーを、私たちは
<静寂>として感じられているのかもしれません‥。 
 
じゃぁ、くつろぐっていうのは、そのゼロ・パワーに触れるってこと
なのかなぁ‥?

 
それでは、またお会いしましょう。