先日いただいた秋休み。久々に友人たちを含めいろんな方たちに会う
ことができました。気の置けない仲間たちとは、ほんとうにほんわか
した空気があり、しばらくぶりに会う人たちは、目をキラキラさせて
近況を、そしてはじめての人たちとは言葉を交わしつつ、眺めつつ、
んま~いろんなおもしろい人がいるねぇ‥と、なかなか充実してまし
たね。
いつも、人と人とのコミュニケーションってのはどういうことなんだ
ろう?‥とかってことをぷあぷあ~と考えていたりするので、ふだん
の生活とはちがって、実際にたくさんの人たちが集まる場というのは、
自分の動きや反応はもちろん、リアルな観察にはもってこいの機会で
した。
さて、この「コミュニケーション」。日常ではみなさんどう捉えてい
ますか? 意味だけ訳すと「お互いの意思や感情、思考を伝え合う、
疎通する」‥となりますが、ふだん何かと慌ただしく過ぎてゆく日々、
友人たちやこども、恋人、家族、また仕事などでの人とのやりとりの
中で、本当に相手のことを汲み取り、互いの理解の礎となっているで
しょうか?
ふつう人と接する時というと、まず先に自分の立場や希望、そして貯
えられた知識による判断があり、それ元に、相手に「こうしてほしい、
ほしくない」「こうすべき、すべきでない」‥という気持ちを抱いて
実際に対話していたりするでしょう?
そこには確固とした自己というものが存在しています。そして当然の
ごとく、相手のことを自分とは全く分たれた存在として見ていますよ
ね?
しかしそういったやりとりの中では、まぁたまに自分と共通した感情
や意見に出会ったりとか、また反対に反りあってばかりとかで、その
一時的な印象が、あなたに「あの人と気が合う、合わない」「好きだ、
嫌いだ」と云わせているだけなのかもしれません。
でも人と関わったり、交流するのって、そんな風に偶然が重なった薄
っぺらな層だけのもの?‥と思いませんか? はたまた別の視点では、
親密な関係というものに、コンタクトする回数や時間的な長さがホン
トに重要なのかなぁとか‥、ねぇ?
う~ん、コミュニケーションってなんなんでしょう? 実はそうする
ことの中に、何か目的みたいなものがあるんでしょうか? 知りたい、
知ってほしい、知り合いたい、解り合いたい??
であれば、真のコミュニケーションというのは、ただお互いに自分の
考えや感情を主張し合うことでも、こちらの意見とそちらの意見をど
うにか組み合わせようとすることでも、妥協することでも、また単な
るなぁなぁの馴れ合いで、だらだらと過ごしゆくことでもないはず‥。
では、ここで「疎通する」という言葉を試しに取り出してみることに
します。それには互いの間に何の障害もなく、何かが滞りなく行き交
うことのできるスペースがあり、また循環しうる動きの質というのも
表わされていますよね? スルスル~っと‥。
ふむ。ということは「私」とは全く異なった存在として、境界線を引
きながら相手を自分から分離させて見ているとすれば、そのようなス
ペースも、動きも、生じさせることはできないわけです。
とすると、それを生み出すため、つまり複数の人が疎通するために最
も大切なことは、まずコミュニケーションの最初の出だしから、相手
を分離させて見たり、扱ったりしないこと‥ですよね?
コミュニケーションの瞬間、私たちは過去ではなく、お互いに今のあ
りのままをしっかりと見ること、そして謙虚によく聞き、さらに見つ
め合うことで、私たちははじめて交流し、通じ合うことができるので
す。
それは私たちが共に空っぽになって、目の前のことに参加し、理解し
ながら、超えてゆくということ。つまりそれは、共通の理解の基とな
る、真理を探しだしてゆく作業なのではないでしょうか?
ですからそれは、最初に相手へ何かを期待しているようなやり方では
全く成り立たないわけですし、もし自分のことに夢中で、自分の利益
や立場を守ろうとしたり、自分の意見や知識にこだわり、それを押し
通そうとするなら、関係はおろか、コミュニケーション自体、ぜんぜ
ん起きていないということなのです。
空っぽになるには、何よりどんな時にも自分のこと、自分の考えや気
持ち、そしてありのままの事実をしっかりと見据えることのできる、
静かでかつ俊敏な視線がなくてはなりません。特に今抱えている不安
や緊張、プレッシャーや恐れ、疑い、葛藤など、自分の内側を深く知
ることがとても大切です。
なぜなら、自分の中にそれらを見つけ、知り、理解することは、同時
にまた、相手や他人のことを知ることにも繋がるからです。
私たちの心というのは、どれもそんなにかけ離れたものではありませ
ん。みな一様に日々何かを思い悩んだり、抱えていたりするのです。
あなたが悲しみや辛さを知るように、誰もが悲しい、辛いという感情
がどういうものかを知っています。
相手へのいたわりの気持ちというのは、本当にくつろいだ、全体的な
配慮なしにはありえません。もし自分がスペースもなく、ギュウギュ
ウに詰まっていたら、それはなかなか難しいでしょう。
ですから、淋しさや悲しみに沈む人に対して、怒りに猛る人に対して、
単なるうわべの言葉上で共感を示してみても、結局お互いの自己中心
性を助長してしまうに過ぎず‥、それよりは、何もせずにそっと寄り
添い見守っていることの方が、その人自身のスペースを広げることに
役立つかもしれません。
うん、コミュニケーションっていうのも、あのゼロ・パワーに触れる
ってことなのかもなぁ‥。
それでは、またお会いしましょう。