ゆるむるぅむ *note

 

::: 意見の違い ::: 
 
どうして、人と人の間では意見の相違があったり、対立というものが
起こるんでしょう? それからまた、和解というのはどんな状態のこ
とを指すのでしょう? 解り合って収まるということ? それともそ
れは妥協を含みながらの交渉の結果でしょうか? 
 
自分が、誰かが、皆それぞれが、ある特定の意見を持ち、主張すると
いうこと‥。和解や合意のためにあれこれ議論検討するよりも、まず
私たちはどうして意見を持ちたがるのか、ということが最初に見られ
るべきではないでしょうか?
 
なぜなら、ある特定の意見を持ったり、また相手がそれとは何か別の
ことを押し通そうとした時、各々の持論へと至った経過というものを
深く掘り下げてみて、その根っこに絡んでいる全ての意図が自覚され
なければ、たとえ合意があったところで、結局はその場限りの散りゆ
くものに過ぎないからです。
 
この深く掘り下げるというのは、自分が納得するための理由を探すこ
とでも、相手を説き伏せるための言葉選びのことでもありません。反
対にそれらの知識をことごとく手放してみるのです。すると、それよ
りもずっと深くの、今までは全く見ようともしていなかった心の奥底
で、ある真意にふと触れることでしょう。
 
もしその深い所でたじろぐことなく、再び断片的にならずに落ち着く
ことができたなら、そこではもう自分や相手を理解するための言葉な
ど必要でないし、攻撃的な態度、対立し、反抗し、争うことが何だか
ひどく滑稽で、無意味なものに感じられるでしょう。
 
そこには何の分裂もなく、ただ共感、共鳴しかないからです。余計な
ものは何もありません。何のためらいもなく、あぁそれしかないな‥
と空手で認めるざるをえない、気づきの次元なのです。その知覚のも
とでは日々自然に基づいてなすべきことがあり、その行動もいたって
自然に生まれます。
 
そしてひっそりと静かに佇みながらも、本質的な調和のために、揺ら
ぐことのない凛然さ‥。私たちは目の前のあれこれにかまけすぎて、
そのような生における根源的なものには、これまでもうずっと長い間、
注意を向けずにきてしまいました。
 
ですからほんとうの問題は、そのように全てを包括的に捉えようとす
る注意が欠けていることにあるのではないでしょうか? 私たちの間
に見解の違い、意見の対立、争いなどが起きてしまうのは、この注意
や掘り下げ方が、いつも偏っていて、散漫で、緩慢で、不充分だから
ではないでしょうか? 
 
忙しい、時間がない、そんなことしている暇はない? そういう人は
きっと、人との関係を大切には思っていないのでしょう。一切の矛盾
なく理解し合えることを見いだすよりも、自分だけ、またはその仲間
内だけで、つかの間の甘い汁を吸いたいのでしょう。
  
けれども、平和に、穏やかに生きること以上に大切なことって、他に
あるでしょうか? まぁ理屈が時間にしろ何にしろ、それを回避した
がる根拠を見てみれば、人の心の脆さや儚さというのはすでに明白な
のですが‥。
 
 

それではまた。。:)