::: 行の素 :::
私たちを行為に向かわせたり、また留まらせるのは、一体何でしょ
うか? ここしばらく、たくさんの理不尽さ、傲慢さ、無関心、日
和見的な気楽さ、何だかそういったものをまざまざと見せつけられ、
またそこに卑劣さ、醜悪を嗅ぎ取って、私たちはもがいています。
しかしまた、何としてもこれを突破しなければと、強く感じてもい
るのです。その悔しさ、悲しみ、憤りというのは、「私」個人から
のものでしょうか? それとも、何か別のところから来ているので
しょうか?
人は、つながり、関わり、理解し合おうとして、思考、言葉を用い
ます。情報のやり取り以外にも、それぞれが、それとなく、各々の
こころ内を表わそうともします。が、言葉とは所詮、断片的なもの。
表面的な送り方、受け取り方では、どうしても別の解釈、誤解を生
み、余計な葛藤までをも生じさせてしまいます。
言葉、印象、歪曲した思い込み‥。関係の中でこれらが際立ってく
ると、何かがざっくりと失われてゆきます。ものごとは引き裂かれ、
分断されて、そこから、排除、独占、支配、依存という流れがどん
どんと進行してゆくのです。それも、ただ、思考の内側で‥。
すると今度は、自分を守るための攻撃と防御が、外側に対して始ま
ります。命を守る、ということではなく、いわば「私とセット」で
ある思想、立場、権力、所有物などのアクセサリーを守りたいので
す。そのため、常にビジネスのように損得で考え、駆け引き、取引
きをしようとします。
けれども、どんな問題についても、その発生の起源というのは、お
そらくもっとシンプルだったはずなのです。にもかかわらず、その
簡素さ、単純さを無視し、無理矢理台頭しようとする、何か別の力
が加わることが、問題をいつもひどく複雑なものにしてしまってい
るのです。
その力とは、何かの支えがないと不安だという気持ち、また何かに
こだわり、絶対にそれを手放したくない‥というような気持ちでは
ないでしょうか? そのように、私たちの感情、そして行為を無意
識のうちに操っているのは、脳内でのこの執着的な思考の動き、パ
ターンなのです。
脳は、長年にわたって慣らされたその内向的な流れに、たやすく巻
き込まれます。ですから私たちは、いつでも、何度でも、問いかけ、
見つめましょう。私たちの行為の素性、その原動力は何なのかと‥。
それは流れに沿ったパターンでしょうか? それとも、それは何か
言い表しがたいほどの深みと静けさをたたえたものでしょうか‥?
それではまた。。:)