::: 変化 :::
変わる、変化するって、どういうことを指すのでしょう? それに
変革って? 何か、そこらへんの言葉のたいがいが、改革っていう
のとごっちゃになって捉えられているような気がするのですけど。
じゃぁ革命は? なんて思ったりして、辞書を引いてもみるけれど、
意味はわかったようで、けれどやっぱりどうも腑に落ちないない感
がぬぐえません。
でもそういう「チェンジ」の必要を感じるのは、問題となって浮上
している事柄の、根底的なところをどうするのかが、現実に、緊要
に身にせまっているからでしょう?
実際にどんな手はずをとり、物理的な処置や、行為をしていくかと
いうことについては、その後、常に磨かれながら開発されていくは
ずですから、最初からそんな方法論を求める必要はないのです。
よくわからないことはもちろんあります。いえ、むしろわからない
ことだらけです。けれど、だからと云って最初から「臭いものに蓋
をする」やり方でいいわけがありません。また遠巻きに非難や野次
を飛ばしていても、何の進展もないでしょう。
状況がさほど変わらないのは、私たちが変化を起こそうとしつつも、
「古いものを手放さないまま、もっと新しいものを欲しがる」から
でしょうか? それとも、「すぐに満たされたがる」からでしょう
か?
費やしてきた時間と、労働の積み重ね、たくさんの投資、そして愛
着‥。あれこれと名残惜しさを感じてしまい、表面だけを削り取っ
て、とりあえず用意したもので塗り直すだけ、内側で朽ちてしまっ
ている基礎的な欠陥構造は見て見ぬ振り‥で済ませてしまうなら、
再びその欠陥から、亀裂が生じてくることは避けられません。
そしてこの構図は、世の中のいろんな問題に当てはめることができ
るとは思います。が、事実、この世の中で生き、関係を紡いでいる
私たちにとって、世の中というのは私たち自身のことなのです。
ですから、これ以上なく身近で、かつ、万人にとってこの、「変わ
る必要」という問題の本随は何なのかと、真剣に突き詰めていけば、
それは、「私たち自身が変われるか」ということに尽きるのではな
いでしょうか?
そしてもし、「変わりたい」「変わらなければ」「変えなければ」
という思いに駆られ、それが喫緊のことだと身をもって感じている
のならばこそ、決して早まらずに、ぜひぜひ注意していただきたい
点があります。
それは、何よりまず最初に、「私」の正体が明かされなくてはなら
ない、ということです。この「私」というのは、古い記憶がギュウ
詰めパッケージされたイメージの固まり、幻想なのではないでしょ
うか?
ただ、それを信じこまないように注意しながら、ご自身を観察し、
この要点を完全に理解することができなければ、「私が変わる」た
めのどんな努力も、すべてが無駄足になってしまうでしょう。
以前、「私」というものを、脳内で形成されるウロコの群に例えた
ことがありますが、最近、ふと思いついたのは、シリアルクッキー。
ぎゅっとして固いのだけど、衝撃にはモロい、みたいな‥。それも
もう、かなり湿気った感じですね‥。
ええ、はい、もちろんそれも単なる一つのイメージでしかないわけ
ですが、「私」や自我なんてのも、実はそんな程度のものなのです。
しかし、そんな程度のものが、やけにのさばってしまっているのが
この世の中、私たちの世界なのです。
シリアルクッキーだとぉ!? と、もし反発したくなるのなら、その
反発感情こそ、どこからやってくるものでしょうか? あ、ほら、
何だかまた、ぎゅぅって音が‥。
たしかに、共に日々を過ごし、愛おしみ、大切にしてきたものたち
と決別しなければいけない時には、身が千切れるような思いを味わ
うこともあるでしょう。
けれどもその苦しみをも越えて、もしほんとうに「変わり」たけれ
ば、そして周りを「変え」たければ、この「私」自身の構造と、そ
してそこから派生している繋がり、関係そのものを深く理解するこ
とで、「私」が完全に溶解しなければなりません。
この溶解こそが、人の質を自然に、完全に変えてしまう変容なので
す。「私」からの反応である感情にむやみに翻弄されることはなく
なるでしょう。
過去、そして今も、そのように生きる人は実在はするでしょうが、
その生き方だけを真似てみても、「私」を掘り下げることにはなり
ません。それぞれの「私」は、自分自身の中だけに、積み重なって
いるものだからです。
個人とは、ずばり「私」のことであり、その個別的人格というのは、
時間をかけ、脳内、つまり意識の中で維持し続けてきた、周囲から
自分を区別し、限定して認識するためのイメージに過ぎません。
しかし、たとえば「悟る」という言葉で表される状態は、限定的な
ものには適用できません。それは、普遍的なもの、全体的なもの、
一般性や、そこに漂っている潮流、その全てを理解することです。
今まで、一生懸命大事に守ろうとしてきた「私」が、どういうもの
なのか、脳で行われている思考という機能も含めて、それがはっき
りと解れば、全ての境界(これもまたイメージだったわけですが)
は、消滅します。
それにだいたい、個々で分かたれているという、目に見えるところ
だけに頼った物質的な区別での「個人」というのは、たったそれだ
けの存在、分かたれたちっぽけな存在なのでしょうか? 一人では
生きられないって、皆知っていますよね?
生命そのものを、個々のものとして数えあげることができると云う
のなら、それはあまりに偏った、狭量な見方ではないでしょうか?
それよりも目を向けるべきは、大きな潮流そのものでしょう。事実、
今の私たちは、いったいどこへ向かおうとしているのか‥?
個人の小さな枠の中だけで、反復的で繰り返すだけの流れに留まる
のではなく、人一人の意識は、最初からすでに一般的な大流へと通
じていることを知り、けっして頑になることなく、心の中、そして
自分の周りへ絶えず風通しのよさをつくってゆくこと‥。
大事に取っておいたその湿気たシリアルクッキーは、もう手放して
しまいましょう。