::: day-to-day care :::
日々の暮らしの中で、自分の話すこと、していること、態度、受け
る感覚によく注意し、気を配り、また同時に、目に映るもの、周囲
で行われていることにも気をつけているのはとても大切なことです。
しかし、気をつけているうちに浮かび上がってくる最大の気がかり
は、おそらく社会の中での自分自身の存在についてではないでしょ
うか?
世間に溶け込めているか、孤立していないか、首尾よく振る舞えて
いるか、また、人の役に立てているか、生きるに値するか、きちん
と愛せているのか‥。洞察の過程では、そういったことを案じてし
まうことも往々にしてあるでしょう。
そのような問いにふと留まり自問してみるのとは別に、もしそれに
悩み、その問い自体に囚われてしまっているのならば、その時点で
すでに生きることの「喜び」から遠ざかっているのでしょう。
このような悩みを浮かび上がらせるのは、「私」自身、つまり微妙
にガタついた、ルーティーン的思考軌道に乗っかってしまっている
からだと気づけるでしょうか?
私の存在に対する壮大な悩み、もちろんほんの小さな悩みも、それ
らは不安感から生まれます。不安感、こころのざわめきは、脳内の
ばらばらな記憶の寄せ集めである「私」の成り立ち、その不完全さ、
もろさ、はかなさというものを自覚できていない時に生まれるので
す。
たとえ「私」にそれなりのプライドがあっても、所詮、プライドと
コンプレックスというのは表裏一体の危うい観念で、事実それらは
取るに足らないちっぽけなものです。
しかしある時、ある人がこう言っているのを聞きました。
自分の恥について勇気を持って語りましょう。そこに他者からの共
感があれば、こころの闇を溶かし、それを消滅させることに繋がる
でしょう、と。
一瞬、それは素晴らしい!とも思ったのですが、すぐに何かが引っ
かかり始めました。そこで、この違和感を理解するために洞察して
みたところ、やはりそこには見落としがちな小さな落とし穴があり
ました。
(‥ご存知かもしれませんが、世の中で流通している体の良いシス
テムというのは、だいたいこのような落とし穴でぼこぼこしていて、
私たちがそこに落ちるのを待っています‥)
たとえば、自分自身の恥ずべきことやコンプレックスについて多少
なりの自覚があるとして、それを公にさらけ出すことで、「私もそ
うよ」と周りの人たちがうなづいてくれたり、共感や支えが得られ
ると、それが慰めとなるのは事実でしょう。もし負ってしまった傷
が軽ければ、それだけで癒えることもあるかもしれません。
そこには、私は独りぼっちではないという、こころの安らぎがある
からです。そばに仲間がいれば、不安定な状況を突破し、そして再
び困難にさらされた時にも、それに立ち向かうためのエネルギーが
得られるというのは、もちろん素晴らしいことです。
ですがここでの問題は、そのように一度は癒えた傷や感情も、残念
ながら少しのきっかけでまた生じてしまったり、繰り返される可能
性は完全には払拭できていないということです。
実は、「私」中心の思考軌道に乗り続けていることこそが、こころ
の闇なのです。トンネルの中は暗く、まあ、ぽつぽつと多少のライ
トが点いていて、何とか前に進むめるかもしれませんが、ともかく
それは人工的に灯された幻想の明かりにすぎません。
それにハッと気づいて「私」の思考軌道から離脱すると、そこには
ただ人として感じること、考えることだけがあります。こころをク
リアにするとか、裸になると表現するのはそういう意味であって、
必ずしも恥部や暴慢さを隠さずにさらけ出し、垢をこそぎ落として
いけばよいということではないのです。
生の源泉に触れ、喜びにあふれている時に、私たちは孤独など感じ
ません。それは、全ての存在や現象と切り離されておらず、つなが
っているという実感であり、もちろん、差別も、孤立も、断絶も、
成立し得ない次元です。
だからこそ、地球上で生きる全ての人たちがためらいなく手をつな
ぐことができるよう私たちが持つべき照準や指針は、子どもたちの
笑顔や、日々のささやかな喜び、暮らしの中にちりばめられている、
そんな慎ましやかな美しさなのではないでしょうか?
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日常的に洞察したこと、感じたことをつらつらと書いてきて、
今月、この『ゆるむるぅむ』も Ruelle と共に10周年を迎えました。
どうもありがとうございます。