ゆるむるぅむ *monde

 

+ Mr. Captain +

 

乗降口から出た瞬間、むわわっとした湿気をはらんだ夜の外気に少しくらっとした。そこは、日本から太平洋を南下したところにある島で、ただ乗り継ぎのために降りただけだったが、とにかくそれが、初めて踏んだ最初の異国の地だった。これまで感じたことのない、熱く、ねとっとした重たい空気が、思いがけず肌にまとわりついきて、正直驚いた。今でもその感覚は思い出すことができるが、真夜中だったせいか、眠くてぼんやりしていたからか、その空気以外のこと、その立ち寄った空港で、どれだけの間、どう待って過ごしたかなど、前後の景色についてはほとんど覚えていない。
 

暗い夜の中、誘導されるがままに再び飛行機に乗り込んで向かった先は、さらに南方の大陸、オーストラリアだった。到着した時にはすでに夜も明け、入国手続きのホールには朝の光がまぶしく差し込んでいた。列に並び、ドキドキと緊張しながら進み行くと、ガムをくっちゃくっちゃと噛んで、まぁ何というか、とてもフレンドリーな対応のお兄さん職員から2つ3つ簡単な質問をされながら、こ、この感じがオージー‥?と、やや戸惑いながら、何とかそれらに答えてクリアした。ゲートの先では友人カップルが、そんな約束はしていなかったのに車で出迎えに来てくれていて、人だかりの中、首を伸ばしてキョロキョロしながら待っていた。
 

彼らは海岸沿いの高層マンションのかなり上階に住んでいた。もちろん眺めも良く、とても広くてキレイなところで、客間としての寝室も別に用意されていた。初めての海外だったけれど、友人宅で安心できるし、10日ほどの滞在中はそこでのんびりと過ごすつもりだった。彼らは昼間、仕事があったので、だいたいは一人でぷらぷらと砂浜を散歩したり、ショッピングエリアに行ったり、ローカルバスに乗ってコアラとカンガルーを見にいったり、マンションのベランダで強風に煽られながら広大な海と空を見たり、楽しそうにビーチバレーをしている人たちを、フィッシュ&チップスを食べながら羨ましく眺めていた。
 

しかし、パームツリーがきちんと並ぶ整備された海岸線、近代的な建物、観光客相手のお土産屋さんもだいたい似たり寄ったりで、ほかに見るものもあまりなく、数日経った頃にはそこで日中過ごすことにもう飽きてしまった。すると、お喋りしながら相談に応じた友人が、近くから夜行バスが出ているから簡単にシドニーまで行けるよ!と促してくれた。うん、せっかくここまで来ていることだし‥と、それに乗って一人で行ってみることにした。単語+単語×ジェスチャーのような英語しか喋れなかったが、たったの一泊、何とかなるだろう。
 

シドニーに到着すると、友人のアドバイス通り、まずは翌日帰りのバス乗り場として指定されている場所をあらかじめ確認した。ふむ、確かに近くではあったが、降りたところではなかった。次に、数日後の帰国便のためのリコンファーム。公衆電話を使い、これも教わった通りにたどたどしく喋ってやり終えた。これでようやく少しほっとして、ガイドブックを片手に街の散策を始めることができた。ちょうどその界隈は、色褪せたレンガや、しっとりとした石造りの建物や教会が並ぶ、それなりに歴史を感じさせる場所だった。木が茂る大きな公園の片隅ではチェスに興じている老人たちがいたりして、そんなふうにそこで暮らしている人たちの姿を見ていると緊張もほぐれ、だんだんと穏やかな気持ちになっていった。
 

その後は旧市街をうろうろとしながら安宿を探した。遠くから見てレンガの壁にHOTELとグリーンのペンキで書かれたところがあったので、それを目指しひょこひょこと歩いて近づいてみると、一階はガラス張りの、奥にカウンターが伸びたパブだった。何だか場違いな気がしつつもその店に入ると、カウンターの中にはおそらくオーナー兼マスターと思われる、口元に髭を蓄えたやや強面のおじさんがいたので、泊まれるか、部屋を見れるかを聞くと、空き部屋の番号を走り書きしたメモとキーを渡され、店の奥にあるドアから階段を上がるようにそっけなく言われた。たった一晩だし、早くまた町歩きにも出かけたかったので、そのシンプルな部屋を取ることに決めた。ベッドと、窓があったのは覚えている。シャワーは、部屋から二つ隣のドアだったか‥?
 

このパブ兼貸し宿というのは、そういうのがあると当時のバックパッカー向けのガイドブックに載っていたんだと思う。港町で旧市街ということもあり、さほど珍しくはないのかもしれないが、もし知らなかったら、いくらHOTELと書いてはあっても素通りしていたはずだ。見た目はカウンターにビールサーバーが並ぶ、ただのパブなのだから。
 

一日分の着替えだけ入ったショルダーバックを部屋に置いて一息つくと、すぐに出かけて観光を再開した。あまり遠くに行って迷わないようにだけ注意して、のんびり歩きまわっているうちに夜になった。確か、寒くも暑くもなく、夜の散歩にはちょうど良い季節だったが、一応用心のため、早めに戻ることにした。オペラハウスを横目に通り過ぎ、点々と連なる橙色の街灯の上に大きく浮かび上がる頑強な鉄橋の下をくぐり、車のほとんど通らない広い坂道をしばらく登ったところのあの宿に。
 

戻ると、店は昼間の雰囲気とは大違いで、カウンターには地元客とおぼしき人たちがつづらになってワイワイガヤガヤと立ち飲みしていた。あの強面のおじさんも、その時だけは客の相手をしながら少し笑っていた。一瞬、そんなラフで楽しそうな雰囲気に惹かれもしたが、やはり気後れしてしまい、またカウンター越しにルームキーだけを頼むと、少し待たされはしたが、客から離れるとすぐ真顔になってしまったおじさんから、無言でヒョイとキーを渡され、おとなしく部屋に戻った。
 

階下のざわめきは夜半まで続いたが、そのうち店じまいになったのだろう、最後にトントントン‥と階段を上っていく音がし、どこかのドアがバタンと閉まった後は、建物内にはシーン‥とした静寂が訪れた。しかしそうなると今度は、すぐそばの鉄橋を渡ってゆく長い長い貨物列車の音が時折、ガタンガタガタ‥ゴトンゴトゴト‥としばらくの間響くのが耳についてうるさかった。だからその夜眠れたのは、たぶんほんのわずかだったはずだ。
 

朝になり、身支度をしてチェックアウトに降りて行くと、おじさんはもう店の準備を静かに始めていた。おそらく、毎朝そんなふうに店を開け、一日中そこで働いた後、建物のどこかの階の部屋で眠る‥というのが彼の日常なのだろう。列車の音も、慣れてしまえば案外ぐっすりと眠れるものなのかもしれない‥。カウンターの端にあるレジを挟んで向かい合った数分間、いつものように特に会話という会話をすることもなく、彼がゆっくりと領収書か何かを書き終えるのを見て待ち、そして淡々と支払いのやりとりを済ませて、そこを去った。
 

初めての海外、一人で泊まった宿‥、消えゆきそうなおぼろげな記憶から今でも思い出すことができるのは、カウンターの中から店を仕切っていた、船長のように威厳漂うあのおじさんの風貌と、そして佇まいだ。
 
 
 
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