ゆるむるぅむ *monde

 

+ Rachid +

 

宿を出て、肩にバッグを掛け、また歩きはじめた。予定外のプランだったとはいえ、一人でシドニーまで来れたこと、今まで知らなかった街を散策して、その土地の歴史を垣間見ることができたということだけで、十分満足していた。その日は、帰りの夜行バスまでたっぷり時間があったので、旧市街から離れて、新しく開発されたエリアの方まで足をのばすことにした。
 

だが、その道程の記憶は完全に飛んで無くなっている。覚えているのは、朝から何も食べないままでお昼もとっくに過ぎた頃、お腹がぺこぺこに空いていたので、とりあえずどこかの店に落ち着こうと、綺麗なヨットハーバーの近くに見つけたレストランに入ったところからだ。ちょうど、ランチタイムとディナータイムの間の空白の時間帯、それにたぶん平日だったのだろう、他のお客は見当たらず、ウェイターも一人きりだった。
 

席に案内されて座ると、すぐにメニューを渡されたのだが、見てもよくわからずに考えあぐねていた。少しして注文を取るためにウェイターがテーブルに戻ってきたので、
「えっと、何か、ちょっと、食べたいんですけど‥」みたいに云ってみると、
「‥。タパース?」と笑顔でメニューのどこかを差されたが、どのみち内容はわからないので
「じゃぁそれにします‥プリーズ」
「オーケィ」(+笑顔)
そこは、スペイン料理の店だった。たぶん、何か出てくるだろう。
 

「お飲みものは?」
「‥コーラ」‥面倒くさかったので、発音の簡単なコーラを頼んだと思う。
「コーラ。オーケィ」(+笑顔)
 

先に出されたシュワシュワとしたコーラを飲みながら、まだ新しそうなその店の、白くて、清潔で、広い空間を見渡した。センターには厨房があり、そこを丸く囲むように‥、そう、ちょうど客船のデッキのようなスタイルでテーブルが配置されていたのだと思う。方角的に、反対側にあるテーブルからは海が見渡されるようになっているだろう。座った席の右サイドは通路を挟んで厨房のための白い壁、そして左サイドは下方に水路を見下ろすことができ、時々、伝うようにそろりそろり‥と船が流れていった。屋内だったが、ガラス窓は全て開かれていたので、まるでテラス席にいるみたいで、窓の上に張り出されたブラインドシートは心地よい風にパタパタパタ‥とはためいていた。
 

しばらくすると「はい、お待たせしました、どうぞ召し上がれ‥ 」と言ったかどうかはわからないが、そんなノリで、ニコニコとしながらウェイターが料理を運んできた。目の前に置かれたお皿には、いろんなカラフルな料理がちょこちょこと並べられ、今思えばあれは、タパスの盛り合せ‥的なものだった。わぁおいしそう!と心の中で小さく叫びつつ、 実際の表現では、うなずきながら「サンキュー!」と笑顔を返してみせた。
 

料理はどれもとても美味しかった。お腹も満たされ、食後のコーヒーを飲みながら、キラキラと水面に光が跳ねて映るのを横目に、まったりとくつろいだ。さらに、その居心地の良さからだんだん離れがたくもなってきて、街はもうだいだい一通り見たし、夕刻までそこでのんびり過ごせればいいなと思い、念のため、そのウェイターが通りかかったところで
「すみません、あのぅ、ここに、もう少しいても、構いませんか?」と聞いてみた。
「オフコース!」(+笑顔)
 

それから、テーブルの上で何枚か絵はがきを書いたり、ボーとしてみたり‥。時々、あまりの静けさに心配になって振り返ると、ウェイターはこちらを気づかうように、やや離れたところから微笑んでいた。近づきすぎず、放っておかれるのでもないあの時の距離感は、テーブルサービスとしてはまったく完璧だった。
 

少しずつ日が傾きはじめ、辺りの色が柔らかくなってきたころ、急に背後でざわざわっとした気配と共に話し声がして、最初のディナー客らしきスーツ姿の数人が入ってきた。よし、もうそろそろ出て、バス乗り場にゆっくり向かうことにしよう、そう思って会計を済ませてから席を立ち、出口へ向かうと、脇のレジにいたウェイターの彼からショップカードをハイっと手渡された。「サンキュー」と当たり前のようにそれを受け取って、「バーイ」と互いに笑みを交わし、気分良く店を後にした。
 

外はちょうど夕暮れ時。金色の光が地面に降り注いでいて、とても美しかった。すこし進んだ後で立ち止まり、一度はポケットに入れたカードを出し、よく見ながらふと裏返してみると、そこには彼の名前と電話番号が書かれていた。もし、その後もずっとシドニーにいるのなら、その Rachid に電話したかもしれない。でもその時はすぐに発つことになっていたので、カードはまたポケットにそっとしまって、バス停へと向かった。
 

前日、歩いた公園に戻ってきた。辺りはぼんやりと暗くなり、夜が始まろうとしていた。街灯がつき始めたが、周囲にはまだたくさんの人がいて、立ち話していたり、楽しげに遊んでいたり、まだ座ったままチェスを続けている人たちもいた。腕時計を見ながら、出発までけっこう時間あるなぁ、ここら辺でぶらぶらして待つかなぁ‥と思ったその時、ふと目を上げるとそこに時計台が‥、あれっ? 一時間‥、以上も違う! 時計台の針では、バスの出発時刻まであと17、8分しかない。‥どっちが正しい‥? も、もしかしてこれ(腕時計)止まっちゃってる!? ど、ど、どうしよう‥っと無言で慌てふためき、でも、すぐにとにかくそこからダッシュ‥! シドニーの街のど真ん中を一人猛ダッシュした。
 

幸い、近くにいたということもあり、バス停には5分もかからずに着いたと思う。すでに他の乗客たちは順番にバスに乗り込んでいるところだった。すぐにその2、3人後ろに並び、ドアの前で係員にチケットを見せて確認してもらい、そしてあまり目立たないようにはぁはぁと息を切らせつつ席に着いた。セ〜フ‥、間に合ってよかったぁ‥と胸をなで下ろしたわずか数分後、ブウゥーンとバスは出発した。街に着いた時、乗り場を確認しておいて正解。だから迷わずにそこを目指してダッシュできたんだもの‥。
 

後でちゃんと見ると、腕時計は完全に止まっているわけではなく、電池がなくなってきたのか遅れて動いていた。いつからだろう‥? そう、なんだかとてものんびりとした午後を過ごしたつもりだったが‥、ひょっとすると、あのレストランには思っていたより長く居たのかもしれない‥。17時ごろに出たつもりだったが、実はもっと遅かった‥? そうか、そうだったのか‥なんてことをごにょごにょと思い巡らせているうちに、前日ホテルでほとんど眠れなかった分、車中ではすぐにぐっすりと寝込んでしまった。さようなら、シドニー‥。
 

さらに一日を海辺で過ごした翌日、空港に行く前に、その旅でお世話になった友人とブリスベンの街へ寄って一緒にランチしようということになった。チャイニーズが食べたいという彼女の案内で、中国人経営の小さなレストランへ。好きな飲み物を持ち込みしていいの、こういう店だとそうする方が一般的だし、何よりお得でしょ?‥とまた教わり、へえー、それはすごくいいシステムだね‥と感心しながら、二人で斜向かいにあった食料品店でワインを一本買ってから店に入り、グラスを借りて乾杯した。プリプリの海老が入った水餃子や、生春巻き、小籠包を食べながら、そこで楽しい時間を過ごした後、彼女にいっぱいありがとうを言って別れ、そして帰途へ着いた。
 

Rachid には、日本に帰ってきてからお礼の手紙を書いた。店に宛てて送ってみたら、数週間後に返事が届き、その後も数回、手紙をやり取りした。文面には、いつもユーモアと明るさが滲んでいた。こんどはいつシドニーに来るの?とも聞かれたが、率直に、次の旅はオーストラリアではなく、ずっと前から行きたいパリだと思う、と答えた。
 

それからずいぶん経ったある日、彼から一枚の絵はがきが届いた。少し色あせた写真、乾燥した感じの街並みと、背後には雄大な山々が連なっている。
「今、アルジェリアに里帰りして休暇を家族と過ごしているよ。オーストラリアに戻る前の二週間ほどはパリに寄るから、何かあったらここに連絡して」と、隅っこにはフランスでの滞在先らしいパリ近郊の住所が記されていた。そう、彼はアルジェリアからオーストラリアへ渡った移民だった。もしかしたら、フランスにも住んでいたことがあるのかもしれない。その住所には、おそらく家族や友人がいたのだろう。
 

実は、パリにはそのほんの数ヶ月前に、一人で行ったばかりだった。その時、Rachid にも絵はがきを送ったと思う。たぶん彼は休暇中にそのことを思い出してくれたのだろう。久しぶりということもあって急いで返事を書き、その住所に送ってはみたものの、当時の郵便事情や所要日数を考えると、それをタイミングよく彼が受け取るのはほとんど無理だったのではないかと思う。その後連絡は途絶え、結局それきりになってしまった。
 
 
今、彼はどこにいるだろう‥? オーストラリア、アルジェリア、それともフランス‥、もしくは、まったく別の場所かもしれない。でも、きっと今もあの自然なやさしい笑顔で、誰かをくつろがせたり、和ませていることだろう。そんな気がするし、そうであればいいな‥と思う。
 
 

m002
 

————————————————————————-

 
au4
 
au1
 
au2
 
au3