ゆるむるぅむ *monde

 

+ Un couple parisien +

 

サンマルタン運河の横を歩いていた。辺りはすっかり暗く、人気もまばらで、冬のパリの鼻につんと凍みるような空気を吸い込みながら、片手には地図を、もう一方の手には今にもずり落ちそうになっている大きなナイロンバックを乗せたキャリーカートをズルズルと引いていた。
 

この辺なんだけどなぁ‥、もう一本先の道かな‥? すでに何度同じところを行きつ戻りつしただろうか‥。道はさほど入り組んでいるようには見えなかったが、どこも同じように灯りもあまりなく、暗かった。だから細い通りには進まずに、端から一本一本を覗き込むようにして、当然、掲げられているであろうHotelと書かれたサインを見つけようとしていた。
 

握りしめている地図の、星印の付けられた場所。そこにホテルがあるはずだった。空港からRERという郊外線に乗って、途中でメトロに乗り換え、地図に示されていた最寄り駅で降りた。そこからその星を目指して地図の通りに少しばかり行けば、予約されているホテルに到着するはずだった‥のだが、いくら歩きまわってみても、居住区なのか何なのか、倉庫みたいな建物も並んでいるその界隈には、ホテルのホの字も見当たらないし、人が出入りしているような商店やカフェもなく、ひっそりとしていた。
 

ない‥、ないな‥、ど、どうしよう‥。どんどんと不安が押し寄せてくる中、でも自分が見落としているだけかも‥、もう少し行けばあるかも‥、そう思ってウロウロし続けた。だってその白黒コピーの地図というのは、<航空券+ホテル>パックを購入した旅行会社から、いろんな案内といっしょに事前に自宅に郵送されてきたものだったからだ。滞在中、あなたの泊まるホテルはここですよ、ココ→★‥という感じで地図にマークされているのだから、信じるのがまぁ普通であろう。
 

しかしその星の現実は、目印になりそうなものがまったく何もない建物で、その傍には暗闇の運河があるだけだった。地図が、間違っている‥? 混乱してきて、立っているところがほんとうに地図に示された通りの場所であるのかも、だんだんわからなくなってきた。ごくたまに人にも出くわすのだが、尋ねようにも何だかどの人も微妙な風体で躊躇してしまう。メトロを降りてからももうずいぶん経っている。そんな焦りに加え、重い荷物を引きずり疲れてきたのもあって、寒空の下だというのに体が火照り、汗ばんでさえくるのを感じた。そしてそうしている間も夜はどんどん深まってゆく‥。
 

ここから離れて、とりあえず明るいところへ出よう‥。あきらめ半分にそう思って、やや先に見える、たくさん車が行き交っている大通りに向かった。静かな動揺と疲れで頭の中は真っ白、ぼう然としていた。今夜はいったいどうしたら‥と、そのまま歩道をとぼとぼと歩いていると、正面から少し年上ぐらいの一組の若いカップルが歩いてきた。そして側を通り過ぎようとした時、男性の方がややためらいがちにも声をかけてくれた。
 

「大丈夫ですか?」
‥とかなんとか言われたはずだ。メモを片手に荷物を引きずり、うつむき加減に歩くアジア人‥。ほんとうに困り果てていたから、遠目からもよほど哀れな姿に見えたのかもしれない。
 

「あの‥、ホテルを探してるんです‥。これ‥」
と英語で言い、地図のコピーを見せると、その人はじっくりじっくりとしばらくそれを見てから、
「うーん、これはまぁこの辺りのようだけど‥、で、ここになかった? じゃぁホテルの住所はわかる?」
「あ、はい‥」
ごそごそっと別の案内のコピーを取り出して、今度はそれを見てもらった。
 

その時、ちらっと同伴の女性の方を見ると、「ったくめんどくさいわねぇ、なんなのよこの子‥」とでも言いたげな痛い視線でこちらを見ていたが、その時はもはやそれで怯んでいる余裕すらない切羽詰まった状況だった。
 

男性はホテル名と住所の書かれたその紙を見ながら、女性に確認を取るようにボソボソっと何か喋ってから、
「んー、これだとこのホテルはここらじゃないね‥」
(え‥)
「お金は持ってる? TAXIで行った方がいいかも。だってもうこんな遅い時間だし、こんなところを一人でうろうろしてると危ないし‥」
「あ、はい、持ってます‥!」
「オーケィ、じゃぼくが捕まえてあげるから‥」
 

男性はさっと向きを変えると、スタスタスタッと車道へ進み出て、車がやって来るのを待つ態勢を取ったと思ったら、そのあとすぐにパッと手を上げて、1台のTAXIを止めた。そしてドアを開け、ベラベラっと何か運転手に話してから、またこちらに向き直して
「はい、乗って。これでホテルまで行けるから‥」
 

「あ、ありがとう! ‥メルシー、メルシーボークー‥!」
二人に向かって礼を言った。というか、いっぱいいっぱいで、それしか言えなかった。男性はバッグとカートをシートの奥に積み込むのを手伝ってくれるとあとはただ微笑んでいた。で、その男性の背後に立っていた女性はというと、
「どういたしまして‥」
と小声で言いつつも、「ま、わたしは別になにもしてないけどー」的な、半ば白けた顏で苦笑いしていたので、それがまた痛かったりもしたのだが、まぁ仕方ない。事実、彼らの楽しいひと時を中断させてしまったのだろうから‥。
 

車に乗り込みむと、男性から渡されていた住所の紙を運転手に返され、
「この住所ね、はい了解」
とすぐに発車した。TAXI‥、探しているホテルはあの界隈だと思い込んでいたので、TAXIに乗っていること自体が何だかちょっと不思議だった。
 

それからブゥーンと走って10分かそこらだろうか、一旦停車し、運転手からもう一度住所を見せるように言われた。
「うん、たぶんあれでしょう‥」
と、今度はすぐ先の交差点をUターンして反対側の車線に回り込むとゆっくりと車を停めて、
「ほら、ここでしょ?」
とそこの建物を指差しながら振り向いた。
 

そこはわりと大きな通りに面した、新しくてきれいな感じのシティホテルの前だった。そうか、ここか‥と云うも何も、さっきとはぜんぜんまるっきり雰囲気の違うところ‥。いったいあの地図は何だったのだろう‥? だが、とにもかくにも無事に着くことができた。そう、あの親切なお兄さんのおかげで‥。
 

チェックインの時間があまりにも遅くなったため、もしかしたら何か言われたりするかな‥と内心思いながら、ウィィーンと自動ドアを抜けフロントへ行くと、
「こんばんは、ようこそいらっしゃいました。」
と、背の高いムッシューフロントマンからいたって普通の挨拶で迎えられ、到着時刻については一切触れられぬまま、淡々とした調子でカードキーの使い方や朝食についての説明を聞き、宿泊カードとキーを受け取ると、
「おやすみなさい」
と見送られ、エレベーターで7階の部屋へと上がった。
 

東京からモスクワ経由でブリュッセル乗換えの長時間フライト‥、パリの空港からほんとうはバスに乗りたかったのにわからずぐるぐる‥、そこで予定変更し鉄道窓口でRERの切符を買ったのだが、ちょっぴり高額の紙幣で払い、戻ってきたお釣りを後で見ると倍近くぼったくられていた‥という諸々のおまけもあって、ほんとうに長く、心身共にくたびれ、そして完全に参った感にやられた一日だった。そんな、いろいろと思い知らされたパリの初日‥。
 

部屋に入って荷物を置くとそのまま窓辺へと寄り、外を眺めながらそこにあった椅子に「ふぅ‥」と腰を下ろした。時刻は、もうまもなく日付が変わろうとする頃だった。
 
 

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