+ Fuchsia +
ある日初めてクラスに現れたその女の子は、先生から「フュゥシャ?」と名前の発音を確認された後、自己紹介を促す会話形式の質問に答えていた。それを周りで聞いていたこちらが理解したのは、彼女はロンドンから来ていて、Fuchsiaという名の由来は、父親のお気に入りの小説に出てきた花からで、今は大学生だけど休学中、ここにフランス語を学びに来たのは、将来は国連、できれば N.Y本部で働いて、アフリカ問題などに取り組みたい、そのためにもフランス語は必要だから‥というものだった。答えている時、ゆっくりと慎重に言葉を選ぶようにして、そしてじぃっとまっすぐ相手を見つめる目が印象的だった。
小柄でスマートな身体にシンプルなシャツやセーター、Pコートを着こなし、ややウェーブした金髪のボブショート、鼻炎持ちなのか、話しながら時々鼻をシュッシュッとさせたり、授業中でもためらうことなくブビブビーっと鼻をかんでいたりと、ざっくばらんな明るい子だったが、その後しばらくして違うクラスになると、会うことは少なくなった。
そんな彼女と先に親しくなったのは、東京の仏語学校で友達になり、後から同じRouenにやって来ていたCちゃんだった。当時は暇な放課後や週末などいつもCちゃんと一緒に過ごしていたのだが、Fuchsiaと3人で出かけたことも何度かあった。記憶がやや曖昧なのだが、確かいちばん最初は、彼女の車で近郊の森に遊びに行こうとCちゃんが誘われ、Cちゃん曰く、「いつも一緒にいるあの子も誘っていいよと云われた」らしいのだが、素直に便乗した。むしろ退屈すぎる日々に、気分転換できるうれしいお誘いだった。
それよりも、隣のイギリスからなのでまぁ近いとはいえ、Fuchsiaが車で留学しに来ていたのがちょっと驚きだった。彼女の説明によると、「最初は車はなかったけど、時々週末にロンドンの彼氏に会いに戻るのに便利だから、もう車で来ることにした。チャネル・トンネルですぐだし、向こうを夜中に出ても朝方着いて学校に出ればいいから、電車より勝手がいい。車は、寮の前の道にてきとうに置いておける」とのことだった。
その休日の朝、市場をやっている広場で待ち合わせをすると、彼女が現れた。確か紺色で小型のルノーか VWだったが、はい乗ってーと言われたその車は、え!と思うぐらいに汚かった‥。窓はほこりっぽいし、シートもダッシュボードもざらっとして、座った席の足元にはぐしゃぐしゃの紙袋‥、ちょ‥これゴミでしょ?と思わず突っ込んだが、まぁなんというかちっとも磨かれたことがないような感じの‥。しかし、現地フランスでも実際 TAXI 以外でピカピカに磨き上げられた車にお目にかかることはあまりない。市街だとガレージではなく、ほとんどが路上駐車なので、さほど構っていられないという事情もあるのだろう。にしても‥の感覚は禁じ得ないが、まぁそこはとりあえず目をつむることにした。
道程はまったく覚えていないが、Fuchsia の道慣れた運転で着いた森は、人気なく完全な静けさ漂う場所だった。すごいよね〜人がまったくいないこんな広い森があるんだね〜わりと近くでさ〜とか、彼女はうれしそうにおしゃべりしながらどんどんどんどんと進んでいくのだが、だんだんと木々が鬱蒼とし、道幅も狭まって山道っぽくなってきた。冬の曇空、森はややさみしさと威厳さがあって、なんとなくもうそろそろ引き返した方が‥と思ったので、ん〜これまだ先行くの〜?と聞くと、あ、そろそろ帰りたい? じゃ帰ろっか! くるっと向きを変えて、皆で来た道をすたすたと戻ったのだった。
別の日、学校帰りにやや興奮ぎみに Fuchsia が、すごく素敵な場所を見つけた! ちょっと遠いけど歩けない距離じゃないから行かない?‥と話しかけてきた。大きな水車があって、オランダみたいな景色なの、あ、オランダ、行ったことある? アムスとか? すごく感じいいところだよ〜‥と話がぽんぽんと続く。オランダで有名なのは風車だが、フゥシャ‥名前が似ているので頭の中で勝手に関連づけられて、この時のことは覚えている。
放課後はもちろんいつも暇なので、うん行ってみよっか〜と軽いノリで3人で歩きはじめたのだが、行けども行けどもなかなか目的地には着かず、ねぇまぁ〜だ〜? もう少しもう少し!‥を繰り返し、結局かなりの距離を歩かされた。その道中、
「そもそも Fuchsia はいったいどうやってそこを見つけたの?」
「ジョギングしてて! こないだ休みの日に適当に走ってたら偶然見つけたの!」
「へ〜、ジョギングとかするの?」
「うん、走るの気持ちいいよ!」
「いつもどれぐらい走るの?」
「んーと、10kmとか20kmぐらい?」(さらり)
「えーーー!!」(CR)
ロンドン・シティ出身の彼女は、こちらが思った以上に自然が好きだし、ヘルシーであった。そういえば、カフェで普通にペリエを注文し、飲んでいた時もあった。
「ペリエって、水でしょ?」
「うん、おいしいよ! コーヒー飲めないし‥」(←うぇ〜の顔)
それとまた別の日には、本格的イングリッシュティーが飲める素敵なサロン・ド・テを見つけたから!と連れて行ってくれたこともあった。シックでなかなか感じのいいお店だったのだが、なるほど、やはりイギリス人としてはティーなのか‥、紅茶をすする Fuchsia はまるで水を得た魚のようにうれしそうに生き生きとしていたのだった。
さて、延々と歩いて行った彼女オススメのその場所は、市街地からけっこう離れたところの、田園みたいな緑地エリアにあった。辿ってきた遊歩道の脇に小川が流れていて、古そうな大きな水車が一台、ざあああ‥と水を持ち上げて回っていた。その一帯はとても静かで、犬を散歩させている人、自転車で通りすぎる人にすれ違っただけで、あとは背の高い冬枯れの草がさわさわと揺れていた。ほんとうに素敵な場所だった。観光地でもないし、彼女の案内がなければおそらく見ることのない風景だった。水車の傍に3人座ってのんびりしていたらあっという間にもう夕暮れで、また明日ね、とそれぞれにバスで帰ったのだった。
彼女は好奇心旺盛、活発で、おしゃべりで、まぁちょっとルーズだけど、空気を読んで控えめなところもあって、さっぱりとしていた。かと思えば、授業中、あからさまにつまんなーいといったしかめっ面で背中を丸めて頬杖ついていたり、何かを説明しようとした際、語彙につまづき、「ん〜もう! get ってフランス語だと何て云うの!?」と半分叫んでいたり‥。たぶんとても正直で感受性の豊かな人だった。もっと親しくしたかったけど、会話中、まだまだ互いにつたない言葉のせいでうまく伝わりきらないこともいっぱいあったな‥。
その Fuchsia との最後のお別れが思い出せるようでいまいちはっきりと思い出せない‥。私たちより先に Rouenを離れていったはずなのだが‥。休暇明けはもう大学に戻るから‥とある日突然告げられ、驚いたけど、じゃあ元気でね‥とさらりとハグを交わしたんだっけ? たぶん、そんな感じだった気がする‥。それで後でCちゃんと、ねぇ‥何か Fuchsia、けっこう嬉しそうじゃなかった? うん、そうだね‥、たぶん彼氏と会えるからじゃない?‥なんてことも話したような‥。
