ゆるむるぅむ *monde

 

+ à Honfleur +

 

ある休日、友達のCちゃんとふたりで Rouen から電車とバスを乗り継ぎ、Honfleur / オンフルールを訪ねた。ノルマンディ地方の小さな港町である。日帰りで行ける、すごくかわいくておすすめのところだとガイドブックにも書かれていた。
 

Paris を流れているセーヌ川が、大西洋へと注ぐ終着点 Le Havre / ルアーブル までは鉄道で行って、そこからすぐにバスに乗りかえた。小さな橋でいくつかの川を渡ったが、もうそろそろ着くころかな‥というところで、バスはいきなりとんでもなく急勾配の橋を、ブゥィィーン‥とエンジンをふかして登り始めた。
 

ええーっ、これ行くの!? うわわぁぁ〜!ひっくり返りそう〜!と、顔は笑いながらもひきつってしまうし、あせって心臓もドキンドキンし始めた。前情報なく、急な展開にほんとうにびっくりなのだが、乗っている以上はもうどうしようもない。見ると近くに座っていたおじさんも目をまん丸く見開き、むむぅ〜と固まっていた。
 

まるで、遊園地のジェットコースターか何かに突然放り込まれたような気分にさせられたその大きな橋は、あとで調べるとまさにそのセーヌの河口上に掛かる、ちょうどその頃出来たばかりの新しい橋、Pont de Normandie だった。
 

その急登坂はおそらくほんの数十秒のことだっただろう。しかし、その時の胸のドキドキは鮮明に思い起こすことができるし、思い出しながら今でもドキドキしてしまえるほどに強烈だった。動揺があまりに強すぎて、車窓から見た景色の記憶は完全にかすんでしまっている。てっぺんに登り切ってから、車体がゆっくりと下りへとシフトしていってようやく緊張もゆるみ、他の乗客たちと一緒にほぉぉ〜と安堵したような‥。
 

その日はあいにくの曇天で、時折小雨がパラつき、始終降ったり止んだりの一日だった。 バスは昼過ぎに Honfleur に着いて降りたのだが、特に何をするか決めていない私たちは、とりあえずカメラ片手にそこら辺をぷらぷらと散策し始めた。
 

Cちゃんは写真家で、ごついレンズのついた重たい一眼レフカメラを持って来ていた。何を見て、何を撮るのかはその人のセンス、その人の視線を通して‥、なので、彼女の横にいながら、へぇ〜そんなところが気になるのか‥と思ったり、撮影中の彼女の背後から、自分でも同じ方向にレンズを向けてファインダーを覗いては、見よう見まねでシャッターを押してみたりした。
 

なんてことはないオートマチックのコンパクトカメラだったけれども、あとで現像されたものを見てみると、そんな風にして撮った写真はどれもそれなりによく撮れている。フィルムの基本以外、撮影についてくわしく教えてもらったわけではないが、うっとうしがらずにいてくれた彼女は、まぁ云うなれば写真の師匠なのだ。
 

天気のせいか、オフシーズンだからか、レンガ造りの建物に囲まれた小さな港や通りは、人影もまばらだった。古い教会の前の市場は、おそらく正午ぐらいまでは屋台が並んで活気もあっただろうが、片付けをしていたいくつかを除いてもうほとんどの店はたたまれており、すでに清掃車が辺りを騒がしく執拗にザーザーと洗い流していた。
 

それでも気を取り直して、雨露に濡れた静かな石畳の路地を進み行き、時々立ち止まっては写真を撮ったりしながら、Cちゃんとのんびりと歩いていると、途中たまたま開いていた小さなパブだかカフェだかが一軒あったので、ふらっと入って、立ち飲みのカウンターでコーヒーを頼み、一息ついた。
 

店内には他に地元の人らしき男性が3人、同じカウンターの右手、L字コーナーの向こう側に並び、それぞれにコーヒーやビールを飲んでいた。皆、常連といった感じの顔なじみらしく、店の人を交えて時々何かしら喋っていた。
 

すこし経って、ちょうど対角線上にいる、いちばん奥で静かにビールを飲んでいた人とふと目が合った。その瞳は、何ともいえない深い色をたたえていて、思わず引き込まれた。目が合ったまま一瞬の間があったが、すぐに慌てて目をそらし、Cちゃんと何事もなかったようにそのまま話しを続けた。けれどやはり気になってしまうので、顔は別の方を向きながらも何気に視界の隅っこに彼をとらえたままにしていた。
 

年はちょい上ぐらいだろうか、雨に濡れたクセのある髪で、後ろの襟足はちょっぴり長かった。白っぽいタートルネックにジーンズを履いて、雰囲気から仕事の後の一杯にも見えた。隣にいるのはおそらく仲間だろう。時々ビールグラスを口元に運びながら、他の人の話を聞いていた。その佇まいはまったく気取ったところがなく、無口で穏やかだった。
 

自然を装ってそっーと視線を向けていたのに、どうしても目が合ってしまう。最初は視線がぶつかると互いにぎこちなかったが、そのうち、何か同じものを共有しているように感じ、私たちはあきらめて微笑みを交わした。
 

それははたから見るとまったく何でもない光景だったと思う。私たちはそれぞれカウンターの端と端にいて、Cちゃんを含め、その中間に立っていた他の3人は、そこにあった別の空気にはまったく気づいていないようだった。
 

とはいえ、話しかけるには離れていたし、声をかけるきっかけも勇気もなく、カップの中身も空になり、結局のところ、ただそこに立ち寄った客としてカウンターを後にした。店を出る時に、彼を見ながら Au revoir と云ったら、一瞬不意をつかれたような複雑な表情をしたが、すぐにさらりと微笑んで Au revoir と返してくれた。
 

もう少し長くあそこに居て、彼と話してみたかったのはたしかだが、後から、あの時なぜ話しかけなかったのだろう‥というふうにはまったく思わなかった。ただ、あのやさしい微笑みと彼の不思議な眼差しを忘れることは、おそらくこれからもないだろう。彼の目は、深い海の中のような、ことばを必要としないどこかに通じていた。
 

その後は、Cちゃんとまた田舎道を歩いて小高い丘の上に登ったり、帰りのバスまでゆったりとくつろいだ時間を過ごした。そうだ、帰りもまたあの大きな橋を渡るのだ、と思うとかなりソワソワもしたが、しかし実際渡る時には来た時と同じようなドキドキ感はもうなくなっていて、おおおお〜!とそれなりに楽しんで帰ったのだった。