+ Cyril +
その夏、2度目の南仏だった。
最初のは、自分で計画を立てて、夜行列車で Paris から Nice、そこからさらに海岸沿いを走る電車を何度か乗り降りして、イタリアの隣の Menton という小さな街までを巡る1週間だったのだが、その最初の旅だけでもう Côte d’Azur の雰囲気、色彩、食べ物、海、光、空気‥に完全に魅了されるには十分だった。すると Paris に戻って数日後、まだその余韻にひたっているところに、予定が合わずに行けなくなったという人から南仏へのエアチケットを譲ってもらえるという話が舞い込んできた。さらに、同行するその友人の実家が所有している別荘に泊まれる‥ということで、迷わずOKして便乗させてもらうことに‥。
Cassis。Marseille から車でさほど遠くないとはいえ、大自然に囲まれてぽつんと位置するところにあるそのこじんまりとした港町は、バカンスシーズンなのに不思議と静かで、ゆっくりとした空気が流れていた。たぶん、皆それぞれにプール付きの別荘や滞在型ホテルなどでのんびりと過ごすスタイルが主流な地域だからだろう。
きらきらとしたまぶしい太陽の光、さざ波立つおだやかな地中海、友人の地元仲間も合流して、一緒にボートで沖に出て遊覧したり、ヨットで険しい崖に挟まれた入江まで行き、まるでエメラルドのような色をした水の上で日光浴したり、オートバイで高い山の上にある、ため息が出るような絶景地に連れて行ってもらったり、ランチやディナーで談笑したり‥。最高に優雅でゆったりとした有意義な時間を数日一緒に楽しませてもらったが、帰る前日の午後は特に予定もなく、ひとりになれたので、港の横のレストランのテラス席で、たくさんの船がプカ‥プカ‥と静かに並び浮いているのを眺めながら、絵葉書を書いて過ごした。
少し経ってからそこを離れて、ペタンクに興じるおじさんたちを横目で眺めたりしつつ、暇つぶしのごとくあてもなく辺りをぷらぷらと歩いていたら、とある建物の横に広場のような、公園のような、ちいさくひっそりとしたスペースを見つけた。大きすぎず小さくもない中ぐらいの高さの木が何本か、それから植え込みに囲まれていて‥。木陰では地元の人らしき数人がお喋りしていたり、あるおじさんはベンチで静かに新聞を読んでいた。
空いているベンチがあったのでそこに座って、だたなんとなくその場の雰囲気を楽しみながらぽけら〜としていたら、少し離れた向こう側の通りから、すこし年下ぐらいの若い男の子が歩いてきて、その広場の前でちょっと立ち止まると、さっき自分がしたのと同じように空いているベンチを見つけて座った。
実はその Cassis ではほとんど若い人を見かけていなかった。たった数日の滞在だったし、たいして出歩いていないからかもしれないが、きっとここは大人の避暑地なのね‥ぐらいに思ったもので、だからその分、彼はちょっと目立ったのだ。たとえ無地のTシャツにコットンパンツ、肩にはさほど重くなさそうなショルダーバックといった、どちらかというと海辺の町には地味な色合いの格好であっても‥。
ちょうど向かいあうような位置に座っていたその彼が、しばらくするとすくっと立ち上がり、ゆっくりと歩いてきて目の前に立つとこう云った。
「こんにちは‥。どこから来ていらっしゃるんですか‥?」
すごく丁寧な口調だった。こちらがキョトンとしていると
「あの‥もしよかったら‥なんですが、お話ししませんか?」
端正な顔立ちで、はにかみながらまじめにこう云われてちょっと驚いたが、すぐに
「日本からです。あ、でも Paris に住んでいて、今は友達の家にバカンスで来ていて‥」
と返しながら、あ、座ります?的に左に寄りながら空いた右側を手で示したら、あ、どうも‥とちょこんと横に座ってこちらを向いてきたが、なんとなく緊張しているようでもあった。
「ああ、そうなんですか。日本は‥遠いですよね? で、今は友達の家?」
「そう、すぐその先をあっち側へ登っていったところの‥」
「へえ、いいですね‥」
「で、あなたはどこから?」
「出身は ×××(知らない地名)なんですけど、今は軍隊にいるんです。短期休暇だと帰るには遠いから、この山の上の方にキャンプ場があるんで、そこでキャンプしてて‥、そこから来ました」
「歩いて?」
「歩いてです。あ、わかりますか?」(ここでやっとすこし笑顔)
「キャンプ場はどこか知らないけど‥」
「実は、歩いたらけっこうかかりました。でも海が見たくなって‥、気分も変えたかったし‥」
「入隊は義務‥なんだよね?」
「はい‥」
「で、どう‥?」
「うーん‥。辛いですね‥」
今は法改正で廃止されたのでもう無くなったが、当時のフランスは18〜22歳の男子に徴兵制度というのがあった。あぁそれにしても、この時の彼の表情といったら‥! 目線を落として地面をじっと見つめ、唇をぎゅっと結んでいた。悲しそうな、あきらめのような、なんだかすごくせつない想いがその一瞬でこちらに伝わってきてしまった。
「そっか‥」
わたしたちはしばし黙り込んだ。その間は、周りの木立の葉群れから、さほど多くはないミーンミーンミーンという乾いた蝉の声がよく聞こえてきた。
「えっと、ところで‥名前はなんていうの?」
「 Cyril 」
こちらも名前を云って、それからまたすこし気を取り直した感じで、互いのことを話しながらとりとめのない会話を続けた。全部は覚えていないのだが、年齢を尋ねたら、確か20歳になったばかりとかで、兵役はあとまだ一年以上はあること、将来したいことはよくわからないけど、でもこれから考えてみます‥とか。キャンプ場では周りはグループで自分だけ一人だったし、人ともあまり話せていなかったから、今日は話せてよかったです‥と静かに語ってくれたが、途中、微笑むことはあっても、すぐにふっと真顔に戻ってしまう感じだった。軍での生活がこたえていた上に、人恋しさのような、ホームシック的な落ち込みもあったのかもしれない。
それからだんだんと日差しの色が濃くなってきて、彼はちょっと恥ずかしそうに、でも変わらず丁寧な口調で切り出した。
「あの‥、これからどうしますか? よかったら僕と夕飯を食べに行きませんか?」
正直、一緒に食事に行って、もっと話をしたかったのだが、もしも友人が家で待っていたら申し訳ないと思い、そのように話してやんわりと断ると、大袈裟ではなくとても淋しそうな顔をする。なんだかまた落ち込ませてしまったような気がして、こちらも後ろ髪引かれる思いだったが、でも仕方ない。結局最後は、早く兵役が終わればいいね‥の意味も込めて、「 さようなら。Bonne Chance(幸運を)‥!」と云って立ち去った。彼は直立し、ぎこちなく片手を少し上げて、見送ってくれた。
広場を後にして、かすかに潮風の混ざった夕暮れの空気に包まれながら、時々しか車は通らないものの、まだ日中の熱のこもったゆるやかな坂道をえっちらおっちらと歩いて登り、友人の家に戻った。門戸から家屋までは遠く、ギンゴンギンゴン‥と手動の鐘を鳴らして知らせてから少し待つとオートロックが解錠され、小道を進むと、友人が出迎えてくれた。そして、夕食に誘われたけど断って帰ってきた‥と Cyril と会ったことを話したら、その友人から「どうしてその彼と出かけなかったんだ。別に構わなかったのに‥」と云われたのだが、その家の電話番号も知らなかったし、連絡もせずにそんな勝手はしたくなかったから、そうしただけのこと‥。
その夜は、暗く窪んだような空の中で、遠くにぼんやりと佇む山陰をしばらく眺め、そうしてただ、Cyril のことを想って眠りについた。

