ゆるむるぅむ *monde

 

+ Dans les villes frontalières +

 

まだ仕事で Paris に住んでいた時、ある展示会を視察するためにスイスの Basel へ出張したことがある。上司がそのインビテーションを持っていたからなのだが、わざわざ彼が日本から行くのも大げさだし、「ま、どんなもんか見てきてよ‥」と東京に戻っている時に告げられて、その場で簡単な打ち合わせも済ませてきていた。で、その打ち合わせというのは、
 

「スイスはねー、物価が特に高いんだよねー。だけど Basel ってフランスの横にあるの。だから泊まるところはフランスで探してもらえる? 全ての交通費合わせてもその方が安く済むはずだから‥」
 
Basel は、フランスとドイツとに接している国境のすぐそばにある街だ。その上司は以前ドイツに住んでいたこともあって、何気にデスクの上でヨーロッパの鉄道路線図を広げて見せながら、
 
「ね、ここら辺ならホテルあるんじゃない‥?」
 

Paris に戻ってから、ほぼ指示通りにフランスの Mulhouse という近くの町に無難そうな宿を見つけ、2泊の予約をしておいた。経費で落とすのは1泊のみだが、せっかく知らないところに行くのだから、もう1泊は自分の休日と絡めることにしたのだ。
 

荷物もほとんどなく、当日は Basel 行きの列車に乗って昼過ぎぐらいには到着した。案内地図を見てもさほど遠くなさそうだったので、会場までそのまま歩いて直行した。途中、大きな川にかかる橋を渡りながら、ほお〜これがライン川かぁ‥などと思ったのは覚えているが、その後は会場をくまなく周って目と足を使い、外に出るともう暗くなる頃で、たまたまそこに駅までのシャトルバスがいたのでヒョイとそれに乗って、それから電車に乗り換えて Mulhouse へと移動した。そして予約しておいたホテルを見つけて部屋で眠った‥はずなのだが、疲れに加えて初めての場所での緊張もあったのか、その日後半の大部分は記憶から完全に抜け落ちている。
 

思い出せるのは翌日、つまり二日目の朝、Basel の駅にローカル電車で到着してからの風景だ。とくにパスポートチェックを受けることもなく、ぞろぞろと一方向に歩みゆく周りの人たちに着いて行きながらそのままスルスルと改札を出て、すぐ側にあった売店を覗いてみると、なるほど物価は高く感じたが、いくつものお菓子のパッケージにピングーの絵が使われているのを見て、ふむ、やっぱりここはスイスなのね‥と、帰りにそこでお土産を買うことに決めた。
 

駅舎を出ると外は青空が広がっていた。こんなに天気がいいのに仕事なんてもったいないけど、さぁ、今日もあそこに行くか‥とトコトコ歩き始めてしばらくすると、脇をひゅ〜と後ろから走ってきた路線バスが停車し、パタンと招かれたように扉が開かれた。実は、一度それを通り越したのだが、ちょっと立ち止まってから、ま、まだ早い時間で余裕もあることだし‥と、それに乗ってみようと引き返したのだ。展示会場の方向はもうわかっているので、もしどこか違う方向に行ってしまいそうになったら降りればいいや‥ぐらいの気持ちだった。一晩眠って疲れも取れたのか、その日は頭も体もスッキリと軽かった。
 

観光気分で朝の光が差す Basel の街並みを窓越しに眺めながら車内で立って揺られていた。ちょうど斜め前には、普段着でシワシワ顏の小柄なおばあさんがちょこんと座っていた。どこかの朝市で、もう買い物でも済ませてきたのだろうか? 膨らんだバッグのついたショッピングカートの取っ手を掴んで体を支えながら、バスの動きと共に揺れていた。しばらくすると彼女がいきなり何かを話しかけてきた。
 

「あ〜ドイツ語は話せないんです‥」そうすぐにフランス語で返すと、おばあさんはこちらをじっと見つめたまま視線を動かすことなく、ただ一息の間をおいてからまたすぐ何か云ってきたが、今度はさっきと違う言葉だった。フランス語‥? アクセントが強いのかよく内容が聞き取れない。
 

再び、「ノン‥、わかりません‥」と云うと、おばあさんはもう一度同じように繰り返して何かこちらに伝えようとしていたが、あうあうっ‥とまたそのうちドイツ語に戻ってしまい、今度は近くに立っていた別の人に向かって話し始めた。不意を突かれたようにその人も、「えっ、何なに?」という感じでおばあさんに聞き返してから少し会話をし、それからちょっと周りに視線を泳がせるとぐいっと横に腕を伸ばして、その先にあった降車ボタンを押した。
 

バスが次の停留所に着くまで、おばあさんはずっと独りで少し困ったようにブツブツと何か云っていた。「あ、もしかして降りたかった所が過ぎちゃったのかな‥ごめんね‥」と心の中で一応謝っておいたが、まぁ単に言葉が通じなかったことがわずらわしかっただけかもしれない。真意はわからないまま、降りていったおばあさんが、そこから小さな体でカートを引っ張って歩き出そうとしたところで、もうその姿は見えなくなった。
 

それにしても、スイスでは複数の公用語があるとはいえ、あんな高齢の人でも2カ国語とか話せたり、ぱっと切り替えられるのかぁ、すごいなぁ‥というのと、Paris でもよくあることだったが、ホント、話しかけるのに人種とか関係なくてけっこう誰にでも平気だよね‥という印象のほうが強かった。
 

さて、当時の仕事の話など今となってはどうでもいいのだが、商談なしの展示会視察なんてさほど面白いものでもなく(後でレポートを書くのもけっこう苦労した)、この二日目は早々に会場を後にして、もう一度紋章のついた旗がはためくライン川の橋を歩いて渡り、駅の売店に立ち寄ってピングーの雑誌やお菓子などを買い込んでから、またローカル電車で Mulhouse へと戻った。昨夜はもう遅かったし、朝は早く出てきたので、知らない町を探検しようと歩き始めたのだが、それもつかの間、見どころ乏しく、あっとゆう間に散策し終えてしまった。それに、ついさっきまでいた隣の Basel とはおよそ雰囲気が違い、寂れているわけではないのに、どことなく閉鎖的な空気も感じられた。
 

時間を持て余したので、仕方なく遠くからもうっすら見えていた、その町で一番高いという30階建てのタワービルへと向かった。てっぺんに円形のフロアがあり、ガイドブックによると、そこが “パノラマ風景の見える回るレストラン” になっているらしい。そこで、夕暮れどきの夕食をとることにしたのだ。ひどくベタな過ごし方だが、まぁ、上から眺めるぐらいしか、他にすることもないしね‥とエレベーターで上がり、そのフロアに足をつけると同時に「うん、そうね、回ってるね‥」とうっすらと感じるぐらいのゆっくりとした動きがすぐに伝わってきた。
 

席に案内されてテーブルに着くと、それは時計と反対回りに、ちょうどドイツの黒い森と呼ばれる Schwarzwald のある東の方角へと向かってゆくところだった。薄日ながら、太陽はまだ背後に浮かんでいた。何を注文して食べたのかは覚えてない。遠くを覆っている広大な暗がりの森がさらに黒ずんでゆくのを食事しながらしばらく見ていたが、ただあまりにゆっくりとしたフロアの回転がだんだんじれったくなってきて、その退屈な風景も時間も、一緒にきゅるるるる〜と早回ししたくなるような思いにかられた。
 

丸く広い店内には、家族連れやカップルがほんの数組点在していたが、平日の夕刻、かすかな食器の触れ合う音や、話し声が聞こえてくる以外、テーブルの周りは当たり前のように静かだった。風景や感情にこれといった感嘆も高揚もなく、まるでセリフの少ない実験映画の中にでもいるかのように、ウェイターもほかの客たちも、わたしたちはただ淡々と水平に、そこで一緒に回っているのだった。
 

黒い森を通り過ぎ、眼下にはとりわけ何の変哲ものない町並みと、遠くに山々の稜線を望む北側へと来ると、今度はちょうど西の方で沈んでゆく太陽の光が窓ガラスから大量に射し込んできて、眩しさがひどく目にしみた。完全に日が沈み、やがて町の影に明かりが点々と浮かぶ頃、どうやら最初に座った場所に戻ってきたようだ。長い長い映画をようやく見終わったような気持ちで席を立つ‥。
 

そこから記憶の映像は途切れていて、次に再生可能なのは翌日 Paris へと戻る列車の中だ。左手の窓際に座って、爽やかな緑の山々に囲まれた美しい景色と、谷間をサァーーーっと高速で滑り降りてゆくそのスピードを味わっていた。あぁなんて心地よいのだろう‥。おかげで、どうにか停滞していた気分を追いやれた気がした。
 
 

もうほとんど色褪せてしまっているこの旅の記憶だが、それでもあの朝のバスとおばあさんだけは、今思い返してもなおハイライトなのだ。