ゆるむるぅむ *monde

 

+ A day in Bangkok +

 
覚えている最初の景色は、線路の傍に建ち並んでいた粗末なバラックだ。雨風ですぐに吹き飛んでしまいそうなボロボロのトタンやベニヤ板のようなもので組まれた小屋が、たくさんあった。そしてそこにはもちろん、実際そこで暮らしている人々の存在、があるわけで‥。すぐ間近のそれらを、ガタゴト‥ガタゴト‥とゆっくりと進む列車の開けられた窓から見下ろすように眺めながら、小さく胸が痛んだ。まだここにやって来たばかりなのに、いきなり目の前に現れた貧しさの状景に、心がついていかないようなギャップ‥。
 

すでにタイを訪れたことのある友人たちが周りに多く、誰もが口を揃えて「すごくいいよー」 と、いろんな話を聞かせてくれていたし、日本やフランスで出会ったタイ出身の人たちは、皆いつも朗らかで、とてもやさしかったから、アジアを旅するならまずはタイから‥と以前からぼんやりと決めていた。そして、休暇を取って、ただ島でまったりして過ごしてみたいなぁ‥と思った時、暑さが少し和らぐという雨季の6月に、タイ南部にある Koh Phangan へと行ってみることにしたのだ。リゾートで有名な Phuket や Samui に比べると、まだまだ素朴な自然がたくさん残っているという。
 

ただちょうどその時期、うちにはモントリオールから数ヶ月滞在で東京に遊びに来ていた友人の Martin が、一ヶ月ぐらいなら‥の約束で庭にテントを張ってステイしていた。「あのー、悪いんだけど留守中はここじゃなくて、どこか他のステイ先を探してくれる? でももしついでにタイへ行ってみたいのなら、同じ旅行会社で安いチケットを手配できると思うけど?」と何気に云ってみると、即答で「行く!」とのことで、出発は二人でだった。
 

ところが当日の成田空港では、機材にプロブレム発生とかでその日は便が飛ばず、結局近くのホテルにマイクロバスで連れて行かれて一泊することに‥。でもまぁ休暇は2週間あるし、自由気ままに動くつもりだったから別に何の予約もしていなかったので騒ぐ必要もなく、夜、指定された館内のレストランでバイキング式の食事を一緒に摂ったほかは、彼とは部屋も別々に、ただおとなしく翌日の便をじぃーっと待つしかなかった。
 

翌朝早く、ちゃんと飛行機は飛んだ。ただ、行きは経由便だったため、それなりに遠いんだなぁ‥と感じる10時間くらいのフライト。Martin とは席が離れていたが、Bangkok の Don Muang 空港に降り立った時には、彼は機内で知り合ったという、わたしたちと同世代の女性を連れていた。彼女は日本での滞在を終えてイギリスへと帰国するらしいのだが、乗り継ぎ便が翌日のため市内で一泊するというので、「僕たちと一緒においでよって誘ったんだよ、いいでしょ?」と、そこからは3人となった。
 

さて、安宿も多いという、バックパッカー達によく知られたカオサン通りがある地区まで行くのに、まずは空港からのリムジンバスでぴゅぴゅーっと市内へと移動するつもりでいたのだが、それを二人が「えー、電車を使った方がずっと安いんじゃないー?」と渋ったので、この一瞬の多数決により、鉄道駅へと向かうことに。午後のどんよりと蒸し暑い空の下、人気のほとんどないホームでしばしの間、ぼけら〜‥と次に来る電車を待たなくてはならなかった。それからようやく来た古ぼけた窓全開の列車に小一時間ほど乗って、だんだん市街に近づいてきたころに、線路脇に見えてきたのが、あのスラムのようなバラックの並びだったのだ。
 

終点のホアランポーン駅に着いて列車から降りても、カオサンまではまだ距離がある。さらに路線バスを使わなければならないが、3人ともどこでどれに乗ればいいのかわからない。「もう Taxi にする?」と云ってみたが、彼は「 Taxi !? いやいや、バスでいいよ」と即、却下。節約したい気持ちはわかるが、シェアするならさほどじゃないのでは?‥と思いつつ、やれやれ‥とバッグからひっぱり出したガイドブックを見ていると、地元の人に聞きに行っていた彼が小走りに戻ってきて、「あれだって!」といきなり急かされ、それらしきバスにわっさわっさと荷物を背負ったまま何とか乗り込んだものの‥まぁ、これがなっかなか進まない。そのはまり込んだ渋滞が、夕方のラッシュアワーのせいなのか、それともその界隈が普段からこうなのかはわからないが、車内の路線地図を見ていると何気に遠回りもしているようで‥。混み合った車内でずっと立ちっぱなしのまま、ただただ辛抱の時間が経過する‥。
 

それに、なんだろう‥ずっと気分が晴れず、重いままだ。バラックを見たこと、さっきの電車や、このバスのことだけではない‥。そうだ、このひどくモヤモヤした陰な気分は、大人になってから一度も、グループでちゃんとした旅をしたことがないからかもしれない。選択が必要な時には、意見を合わせなくてはならない‥、当然のことだが、これがなかなか難しい。隣で二人は妙にテンション高く、気も合うようで、きゃっきゃと楽しそう‥まぁそれ自体は別にいいとしても、どうしてもソレに一緒になって乗れない自分がはっきりとわかるし、ささいなことであっても同意を求められないままとか、こちらの希望を伝えるよりも先に行動された場合は‥、とりあえずこの今の時点では、ついていくしかないわけで‥。
 

いつものひとり旅で動いていた、開かれた視線、注意深さ‥のようなものも、明らかに感度が鈍っていた。見ているものが新鮮に映らないし、道路の喧騒や排気ガス、ざわざわした車中も街の雰囲気も、落ち着いて眺めていることができず、ただただわずらわしかった。なんというか、参加しているのに自分の足で歩いてないような気分、違和感‥、もちろん、ここまでのフライト、出発時の空港待機、休暇まで働きづめだった疲労もそれなりに混ざってはいただろうが‥。
 

そういえば、まだ路線バスに乗る前だったか、途中のどこかで河川が見えて、皆でトコトコとその川べりへと近づいてみた時、誰もいない船着場の横にぽつんと、ライチ、マンゴー、グァバ、ドリアン、マンゴスチン‥など、あまり見たことないような色んなフルーツを並べている露天商が立っていた。わぁ〜と眺めながら、勧められるがままに、何かを試食させてもらって、それから、元気が出そうな気がしてトロピカルフレッシュジュースのようなものを買って飲んでみたのだが、まぁおいしかったものの、あいにく心身全体をリカバーするには至らなかった‥。
 

ようやくカオサン通りから少し奥まった路地先にあるゲストハウスへと辿り着いた頃には、もうすでに夜になっていた。予約なしで取れたのは、逆 L字のような形の間取りで簡易ベットが壁に沿って置かれ、手前と奥にスリガラスでできた重たい窓があるだけで、他には特に何の装飾もないそっけない部屋だった。でも、別に構わない。明日はもうさっさとここから離れて、島を目指すことにしよう‥。
 

とりあえず、また1Fのエントランス兼食堂へと下りて、そこで3人で夕食を摂りながら、「朝になったらすぐにバスのチケットを探しに行って Koh Phangan まで移動するつもりだけれど、どうする?」と Martin に聞いてみると、「せっかくだし、ぼくもその島を見たいから一緒に行くよ」と云い、それから、「今夜はこのあと自由行動でいいよね」‥ということで同意した。食事が済むと「カオサン通りに繰り出そうよ!」とはしゃいでいた彼ら二人は席を立ったが、わたしはその場に留まって、ひとりゆっくりと座って過ごすことにした。
 

すると、しばらくたったころイギリス人の彼女がテーブルに戻って来て、目の前の席にストン、と座った。
 

「あれ? 出かけたんじゃなかったの?」

「うん、今着替えたところ。夜はこれからだし!」

「そう」

「ねぇ、ほんとに一緒に出かけないの? 楽しいよきっと!」

「うーん、やめとく。気にせず二人で行って来て」

「でもなんか、気分悪くさせたのかなと思って‥」

「そんなことないよ。疲れてるから、ただゆっくりしたいだけ‥」
 

それから、少しお互いのことを話しもしただろうか‥? けれど、彼女の名前もバックグラウンドも、何も今思い出せないということは、こちらからはたいして聞かなかったか、おそらく向こうも話してないのだろう。それより彼女が云ったのは‥
 

「あのね実は、今夜はわたしのアジアでの最後の夜ってことになるの。日本で過ごしたのはもちろんすごく良かったけど、イギリスに帰る前のもう一晩、楽しく過ごしたいなと思って。で、 Martin とカオサンにあるディスコに行ってみることにしたんだけど、あなたにもぜひ一緒に来てほしいの‥」
 

「ディスコ !?(‥頭の中でチャラチャラしたラウドな音楽が‥)ううーん‥、踊るのは好きだけど、今そんな気分じゃないし、ほんとうに疲れてて‥。それにこの旅も自然の中で静かにくつろぐために来たから、正直そういううるさいところに行きたくないの‥。あ、それから、彼は同行者だけど、ただの友人だし、お互い自由なわけ。だから、まぁ、旅のスタイルはそれぞれ違うねってことで‥」
 

「え〜、そんなこと云わずに行こうよ〜。あ、じゃあ、わたしとあなたと二人だけで出かけるってのはどう? それならいいでしょ? ね、プリーズ‥!」
 

きちんと答えたつもりだし、別にいじけてもいないのに、なぜこんなにも執拗に誘ってくるのだろう‥? あまり伝わっていないからか、いぜん何かを勘違いしたままなのか‥わからなかったが、これ以上行かないと云い張るのもだんだん面倒くさくもなってきて‥
 

「うーん、そこら辺をちょっと散歩するだけなら、いいけど‥?」
 
「あっそう!? うん、じゃあそれでもいいわ。そうしよう!」
 

バッグを取りに一旦部屋に戻ると、そこには Martin が待っていて、しびれを切らした様子でぶっきら棒に「なぁんだ、ほぉら君もやっぱり行くんでしょ‥」と云って、わたしたちが話す間もなく、バタンっ!とドアから出て行ってしまった‥。その瞬間、何とか胸の内に押しとどめようとしていたものが、ドドドドーッと一気に雪崩れてくるかのようで、これはもう完全に無理だとわかった。つまり、これ以上もうソレには乗れないし、ついても行かない‥ということだ。
 

「はぁ、やっぱり行かないよ。構わないから、彼と、なんならオールナイトで遊んでおいでよ‥」と彼女に伝えると、「 えーいいの !? ほんとに?」「だから、最初から全然 OKって云ってる‥。心配しないで、どうぞ楽しんできて!」「わかった! ありがとう!」
 

まぁまぁ、3人というのはふつうにややこしい‥。彼女も彼女なりに気を使ってのことだったかもしれないが、今夜はもう、それぞれが一番したいことをして過ごした方がよさそうだ。薄暗い部屋のドア越しに彼女を送り出してから、すぐにシャワーを浴びてさっぱりした後は、一人静寂の中で冷たいシーツを広げて横たわり、眠りについた。
 

‥夜更けごろだろうか? 部屋に戻ってきたらしい二人が、コソコソ‥シィー‥コソコソ‥と各々のベッドに入る気配がした。その後、また少しは眠ることはできたが、ほどなくして朝がやってきた。身支度をしていると、そのうち奥にいた彼女も起き出して来たので、おはよう‥とあいさつがてら、ゆうべはどんなだった?と聞いてみると、まぁ、それなりに楽しめた様子。チェックアウトを済ませ、ロビーにいたスタッフの女性に長距離バスのことについて尋ねると、すぐ隣が旅行代理店だから、そこで手配してもらえるわよ、とのことだった。
 

云われた通りに Martin と隣の店に行ってみると、海外行きの格安エアチケットや国内ツアーの案内ポスターなどが壁中にびっしり貼られていた。店員も慣れた様子で、はいはい、今日の Koh Phangan 行きねーと、さくさく当日のバスも問題なく予約できたし、料金もかなり手頃だった。ただ、夜行バスなので、出発は夕方になるという。○分前までに乗り場に行ってこれを見せてねと、その場所を地図を見ながら説明してもらい、チケットを受け取った。一方、後ろですでにリュックを背負い、空港に戻らなくてはならない彼女とは、ここでお別れだ。お互いに「バイバイ! 気をつけてね、良い旅を!」とあっさり交わして手を振った。
 

出発まで、まだ時間がたっぷりあったが、荷物はゲストハウスで預かってもらえる。Martin は寺院見物にでも行こうかな〜と云っているので、後でバス乗り場でまた落ち合うことにして、この界隈でそのままぷらぷらしてゆっくりすることに。鈍った感覚を取り戻すには、どうしても必要なひとり時間‥。
 

昨夜は何も見なかったから、午前中はその辺を散歩した。まだその時間帯にはほとんど何も動き出しておらずに閑散としているだだっ広いカオサン通りを抜ける。バーやレストラン、 tatoo や土産物屋、チケットショップなどもあっただろうか‥、しかしやはり、バックパッカー相手の店が多い地区だからか、地元らしい風情は特には見つけられなかったが、ただ好きに歩いているだけで、なんだか気持ちも落ち着いてきたように感じられた。
 

空は、少し光を含んではいたが、ササァーと一瞬で陰りをもたらす分厚い雲がやってくると、パラパラとした小雨が入り混じった。そう、雨季なのだ。かといってさほど嫌な感じもなかった。そのまま手ぶらで歩いていたが、そのうちババババーッと跳ねるような雨つぶが降ってきたちょうどその時、お昼ご飯を食べようと向かっていたオープンテラスのあるカフェの中へと入ることができた。
 

実はそこは、自分たちが泊まったところと同じ路地の、ほんのちょっと手前にある別のゲストハウスだった。ぱっと見だけでもウッディな外観と内装ですごく雰囲気もよかったのだが、昨夜はすでに表に満室の札が掛けられていたので、あきらめたのだ。日本に帰る前にもう一度 Bangkok に戻ってくるので、次は絶対ここがいいなぁ‥と思いめぐらせつつ、今はカフェだけ利用してみることにした。場所的にも、あとで荷物をピックアップするのにちょうどいい。
 

奥のラウンジは天井が吹き抜けで高く、カラフルな生地のタイ式クッションが置かれた小上がりのフロアもあったが、すぐ手前のテラスの窓際に並んだ小さなテーブル席のひとつが空いていたので、迷わずそこに座った。空間全体が落ち着いた色調でまとめられ、木製の装飾に、小ぶりの椅子とテーブル‥。派手な看板が多く、バイクや車の行き交っている賑やかな面通りからは離れているし、そこにいるだけで、すこしだけ自然に近づいた感じで居心地がよかった。ランチに何を食べて、飲んだのか‥は全く覚えてないのだが。
 

食後も、しばしガイドブックを読み返したりして、のんびりしていたが、まぁ暇だった。雨が降ったり止んだりだし、動く気もしない。すると、ひとつ斜め前の席に一人でいた男性が何気に振り返り、ふと目が合ったので、お互いに微笑んで Hi と交わした。開かれたペーパーブックがテーブルの上にあってそれを読んでいたが、あまり集中もしてない感じだった。周りにいた他の客たちはもうほとんどいなくなっていたので、ちょっとためらったが、声をかけてみる‥
 

「ここって、いい場所だよね」

「あ、うん。‥君もここに泊まってる?」

「ううん、別のところ。部屋はどう? いい感じ?」

「うん、すごくいいよ、僕は一人部屋だけどね。でも‥今日は天気がイマイチだね‥ えと、あぁ‥、もしよかったら一緒に話す?」
 

と、ちょっぴりぎくしゃくした感じもあったが、テーブルの向かいの椅子に置いていたバッグをどけて、席を空けてくれたので、そちらへと移る。ついでに、ちょうどすぐそばの他のテーブルを片付けに来たスタッフの女性に、二人とも飲み物を注文し直してから、おしゃべりを続ける。
 

「昨夜着いたばかりで、別のゲストハウスで友達と3人、シェアして泊まったんだけど、部屋はあまり良くなかったの。でももうこの後 Koh Phangan に移動するから‥」
 
「えっ、僕も!」

「わぁ、夜行バス?」

「違う、寝台列車。もう今夜の切符、買ってあるんだ」

「なんだ。でも、もしかしたらあっちで会うかもね‥」
 

London から来たという、ちょうど同い年の Frank は、アジアを旅するのがずっと前からの夢だったそう。たしか、ここを拠点にタイ北部なんかをすでに周って、ラオスにも行ったと話していたっけか‥、人の旅のことなので詳しくは忘れたが、このあとは Koh Phangan を経由して、インドネシアへと南下してゆき、最終的にはオーストラリアに飛ぶのだそう。
 

「オーストラリア?」

「二ヶ月後に、あっちで再就職するんだよ」

「へえ〜 何の仕事?」

「 PR 」
 

広告代理店のようなもの‥? 本人曰く、London でずっとプロモーションの仕事に携わってきたのだが、会社を変えるついでにガラッと環境も変えたいと思ったのだそう。さらに、今だからこそ一ヶ月ほどかけてアジアを巡るには絶好の機会だと‥。
 

「旅の時間がそれだけたくさんあって、島に行くのなら、Samui や Phuket とかも寄れるんじゃない?」

「んー‥いや、きっと西洋人だらけで、リゾートすぎるだろうし‥」

と、しかめっ面している。

あ、同じだ‥。わかる。
 

そんなふうにあれこれと話していたら、あっという間に時間が経っていた。席を立ちながら「もうそろそろ行かなくちゃ。楽しかった。どうもありがとう。じゃぁほんとにまた会えるかもね〜」「そうだね〜」と特に約束もせずに別れ、宿へ寄って荷物を受け取ってから、バス乗り場へと向かった。
 

道路脇の野天広場みたいなところに、まばらにだが、いろんな国から来ていると思われるバックパッカーたちがそれなりに集まっていた。係のおじさんにチケットを見せると、ひとりひとりにそれぞれシールを渡され、胸元に貼るよう言われた。団体客みたいでなんだかなぁ‥と思いつつ、周りを見ると、意外にどの人もぺたぺた素直に貼っているので、あまり考えずに真似して左胸に貼っておく。まだバスはおらず、グループっぽい人たち含めて、誰もがてんでばらばらにそこら辺に立っている感じだったが、少しした頃、いきなりスコールのようなものすごい土砂降り雨がジャーー!と降ってきて、皆ワァァ〜っと目の前の道路を横切り、そこにあった民家や店の軒先にずらりと連なるように立って、しばしの間雨宿りをした。
 

雨が小降りになってきたころ、大型バスが2台やってきた。まだ軒下で横に並んでいた人々は列を崩して、少しばらけながら様子を伺っていた。そのやや遠いところに、Martin がいたのがわかったが、動いてしまったのか、すぐに見失った。さっきの係のおじさんが、何かを叫んでいる‥。なんて云ってるんだろう‥と思いつつも、屋根から落ちてくる雫で濡れるのが嫌でその場でじっとしていると、近くにいた無精髭のカッコいい男の人が、こちらを見て何語かわからないが声をかけてきた。え、何‥?と思った瞬間、周りの他の人たちも一斉にこちらを振り返り、さっきの左胸のシールを指さしたり、ガン見しながら、「 Pink, Pink !! 」などと騒ぐ。うん、これはピンク色だけど‥あれ? あなたたちのは黄色に‥ブルーね‥。 はっ!おじさん「ぴん‥ぴん‥」って云ってる‥? 呼んでるのか!
 

大慌てでその一団から抜け出し、バスの方へと駆けてゆくと、「はいっ、ピンク、こっちのバス!」と勢いのある手振りで振り分けられた。あぁ危ないところだった‥教えてもらってよかった〜‥と安堵しながらステップを上がって乗り込むと、後方で Martin がすでに陣取るかのように座っていて、「もう来ないんじゃないかと思ったよ! 何やってたの?」と云われてしまった。でもまぁ「だって‥、ピンクがよくわからなかったんだもの‥」と答えるしかない。
 

Martin とは通路をはさんだ逆側の、左の席に腰を落ち着ける。窓から外に目をやると、あの教えてくれた黄色とブルーの人たちが見えた。どこへ向かうのか知らないが、彼らのバスはまだ来ないようで、さっきと同じ場所で談笑しながらも首をながーくして、様子をうかがっているようだった。どうもありがとう、さようなら‥と、心の中でお礼を云う。
 
 
エンジンがかかり、乗っているバスがゆっくりと動き出す。ようやく、ここからちゃんと旅が始まるような‥そんな感じだった。