ゆるむるぅむ *monde

 

+ Ahmed & Abdelali  +

 
ある朝、Chef Chaouen_シェフ シャウエンのとある広場の真ん中で、Ahmed に出会った。彼は最初、隅にあった建物の陰の石段にぼんやりと座っていたのだが、その広場を歩いている人もまばらの中、こちらを見るとすくっと立って一直線に近づいてきたのだ。
 

モロッコでは、歩いていると色んな人に声をかけられる。商売人だったり、単におしゃべりしたい人だったり、親切な人だったり。その中には、やけにしつこかったり、勘違いな人、なにやら企んでそうな人ももちろんいるわけだが、旅をしているうちにだんだんと、それはある見返り欲しさからなのか、そうじゃないのかが、相手の顔つきや口調でわかるようになってくる。特に、旅行者相手に下心透けていたり、くどき慣れている人というのはけっこうあからさまなので、何か変だ、イヤだ、迷惑だ‥と思ったら、その瞬間、はっきりきっぱり断ればいい。もじもじとためらいの態度を見せると、相手に隙を与えてしまうし、どんどんつけあがらせてしまうことになるからだ。しかし、かといって最初から最後まですべての人に対して警戒、拒絶してしまっては、せっかくの旅が楽しくなくなってしまうので、そこはまぁ、うまく人を見分けないといけないわけで‥。
 

そして、この時の Ahmed はといえば、「あの、すみません‥」とちょっとはにかみながらも、表情は太陽のように朗らかで、こどものような笑顔をしていた。
 

「どちらからいらしたんですか? もしかして、日本人ですか‥?」

「はい、そうですけど」

「わ、よかった! そうじゃないかと思ったんです。英語か、スペイン語、話せますか?」

と、聞いてきた。
 

「フランス語なら、まぁ‥」

「フランス語か! OK、僕も話せます。えーっと、でも、実は僕、これからどうしても行かなきゃいけないところがあって‥、そうだな‥、もしよかったらあとでまた会ってもらえませんか?」
 

とのことで、とりあえずすぐそばにあった綺麗な青色のテントが張られたカフェで、夕方にまた落ちあうことにした。
 

それから夕刻、約束の時間にそのカフェに出向いて行くと、ちょうど彼も来たところだった。一緒にテラスに座って話始める。
 

「で、今日は何をして過ごしてたんですか?」

「さっき、ハマムに行ってきたところ」

「ハマム! どうでしたか?」

「うん、ちょっとよくわからなかったけど、とりあえずなんとかね〜」

「いや、でもまた会ってもらえてうれしいです。実をいうと、僕の弟が、このあいだ日本人女性と結婚したんです。弟は今はまだこっちにいるんですけど、もうじき、日本に行くことになってるんです!」

「へえ〜! 日本で暮らすってこと? 」

「はい。だからさっきあなたを見かけて、なんとなく日本の人かなって。それで、話しかけたくなって‥」
 

単に日本に興味があるだけなのかと思っていたら、ほぅ、これは面白い展開。お互いの自己紹介をしながらおしゃべりを続ける。
 

Ahmed はスペイン文学を専攻する大学生。家族の用事があって、それを済ませに今朝ここへ来たのだが、住んでいるのは大学がある別の街だそう。そこで弟くんと他の友達とアパートをシェアしている。その弟くんも現在大学生なのだが、今年卒業するのを待って、それから日本へ行く予定になっている。Ahmed 自身は身体が弱く、入院や静養のために度々休学していたため、学年は弟くんよりさらに一年ほど遅れているのだが、そこはまったく気にしていない様子で、むしろ復学したり、また勉強できるのは恵まれていると思うし、特に今は調子がいいからとても楽しいんだ‥と、大らかに話す。
 

「明日はもう僕、うちに戻るんだけど、もし良かったら遊びに来ませんか? 他に日本人の友達はいないし、もしあなたを連れて帰ったら、弟はきっとびっくりするだろうなぁ!」
 

そう云って、地図を描いて見せながら、自分の住んでいる Martil_マルティルという街の場所を教えてくれる。こちらとしては、3日後に Casa_カサブランカ に戻る必要があるため、そろそろまた移動するつもりでいたのだが、経路や時間的にも問題なさそうなのと、Ahmed の話し方や表情‥、恋に落ちる予感‥はしなかったが、裏や下心もまったく感じることなく、彼の実直そうな態度そのままを信頼できそうだったので、一緒に行ってみることにする。「じゃぁ明日11時ね」と、再び待ち合わせの約束をした。
 

翌日、まずはカフェで軽く食事をしながら、宿泊していたリアドでの<ボヤ事件>を彼に話して聞かせる。実は、昨晩一人で部屋に戻って荷物を整理し、それからベッドで横になったら、いつの間にかウトウトと寝入ってしまったらしい。ふと、なにかが鼻先をかすめた感じがして目を覚ますと、横で灯していた楼台がなぜか傾いていて、ブワワ〜ッと炎が立ち上がろうとしている瞬間だった! あわてて飛び起きて、そこらにあった服だかタオルだか、とにかく布っ切れをつかんで、バッサバッサしながら被せるようにしたところ、幸いすぐに火は消えたのだが、この時ばかりはまったくもって冷や汗ものだった。
 

倒れかかった楼台を起こしてみると、下の木製の台がちょっぴり黒く焦げていたので、持っていたペットボトルの水をちょろりとかけておく。木の燻すような匂い‥。ふわりと室内に残った白くくすんだ煙が、天井近くの通気口の穴へとゆらり‥とのぼってゆく。深夜ということもあって宿の誰にも気づかれていない様子だったので、部屋の入り口のドアを少し開けて中庭からの空気を呼びよせるようにし、その後しばらくはずっとパタパタ‥パタパタ‥と仰いで、煙と匂いをその一つしかない小穴へと追いやった。台の焦げてしまった部分は、上に楼台と備え付けの灰皿を置けばうまく隠れた。そして翌朝、完全に空気も入れ替え、何事もなかったようにチェックアウトしたが、いや、ほんとうに大ごとにならずに済んでよかった〜‥という話。
 

さて、それからターミナルへ行って、彼と一緒に長距離バスに乗る。先日購入したばかりのラグをてっぺんにくくりつけた大きなバックパックは、下のバッゲージトランクに預けておく。
 

乗って2時間ほどで、Tetouan_テトゥアン というところに到着したもよう。「ここで乗り換えだから、降りるよ」と云う彼についてゆく。経由便らしく、ほかにその道端にある停留所で降りたのは、数人だけだった。外に出て、よしじゃぁトランクを開けて‥と思ったその瞬間、ブ、ブーーン‥といきなりバスが走り出してしまう。
 

「え? うそでしょ!? バッグが‥!」

横にいた Ahmed が瞬時にぎりぎり届く手でバンバンっと車体後方を叩いたものの、バスは止まらない! すると、彼はためらうことなく、すぐに「ウォーーーーィッ」と大声をあげながらタタタっと駆け出してゆくものの、バスはどんんどん遠ざかってゆく。一方こちらはといえば、あっけにとられてまったく動くことができず、「あぁこれはもう無理なんじゃ‥」と半分あきらめの境地でいたところ、彼の叫び続ける声に誰かが気づいたのだろうか? あっ100mぐらい先のところで‥ 止まった !!
 

追いついた彼は、前方右側の乗車口のところまで行って、そのドア越しに運転手に向かってなにか叫んでから、車体にあるトランクのドアを開けようとしている! 慌てて彼のところまで走っていき、一緒に自分のバックパックを力いっぱい引きずり出した。それからトランクのドアをバンっ!と閉めた後、すぐにササっとふたりでバスから離れる。彼が手をあげて合図すると、ゆっくりとまたバスは走り出して行った‥。
 

「ありがとう! 助かった〜‥ 大丈夫 !? 」

「うん、大丈夫だよ‥」

と、彼はゼー‥ハー‥と息をきらし、全力出し切った様子でしばしびっくり呆然とした表情だったが、すぐにそれも緩んで、ホッとした笑顔に変わった。身体が弱いのに、必死で追いかけてくれた。もう絶対信頼できる人だ‥と確信する。
 

息を整えてから、気を取り直して路線バスに乗り換え、無事に Martil にある彼のアパートへ。そのうち帰ってきた弟くん Abdelali を紹介してもらい、おしゃべりに興じる。なるほど、やさしそうで物静かで穏やか、背が高く端正な顔立ちの Abdelali は、なんとなくだが日本に行っても違和感なくすんなり馴染めそうな感じだった。陽気な兄 Ahmed の他にも兄弟姉妹はいるの? と聞いてみたら、上下に数人、全部で7人きょうだいとか云っていた。実家は田舎にある農家で、大学に進学したのは今のところ僕たち二人だけだよ、とも話していた。
 

Abdelali とお相手の日本人の方は、やはり彼女が旅行中に出会ったのだとか。今は働いていて東京近郊に住んでいる。恋に落ちた二人は、結婚を決めてから、いちど夏の間の2ヶ月ほどをここで一緒に暮らしてもみたらしい。そして将来を考え、やはりきちんと生計を立てて働くには日本の方が仕事を見つけやすいだろう‥と、彼が移住することに決めたのだそうだ。そのために日本語も勉強中だというので、少し喋ってみてもらったりもして‥。
 

夕方は、浜辺を散歩した。漁師さんたちがカラフルな船の横で、道具や網の手入れをしているのを見たり、近くのカフェでお茶したりしてのんびりと過ごす。夜になると、彼らのもう一人の同居人 Jahid が友達を連れてアパートに戻って来た。聞くと、そのアパートには大学生がたくさん住んでいて、皆わりと仲が良く、頻繁に行き来しているのだとか。日本人女性が遊びに来ていると聞いてか、若い子たちがぞろぞろと代わるがわる部屋にやってきて、挨拶してくれた。何人かで輪になって話しているうちに、 Abdelali の結婚にまつわる話の流れもあって、「愛について」がテーマになり、新しく現れた人には「ここに参加するには自分の恋愛話をしなくてはいけない」と冗談交じりに云ってみたりして、楽しく過ごした。皆ムスリムなのでお酒もなくシラフということもあってか、なんだかとってもさわやかで、穏やかな語らいの夜だった。
 

そういえば、誰かが、「日本人の旅行者なんてここらじゃ見かけないけど、一人だけ住んでいる女性がいるよ。彫金宝飾の学校に通ってるみたい。僕は見たことあるよ」と云っていた。わざわざモロッコにある専門学校に留学してるのかぁ。そういう学校があることを知るのも難しいだろうに、実際来て通っちゃうのってすごいなぁ〜と驚いたが、この Martil という街は、小さいが新しい街の雰囲気があり、わりとモダンな建物も多い。海沿いで開放的ということもあって、他の古都などにくらべると、まぁまぁ暮らしやすそうな気もした。
 

次の日、講義があるので大学に行かなくてはいけない彼らだったが、Ahmed が「僕は午前中のゼミだけで終わるから、一緒に行って、食堂で待っててくれる?」と云うので、興味津々ついてゆく。大学の敷地に入り、渡り廊下を抜けてゆくと、庭先にこぎれいで天井が高くて温室みたいに明るい建物があり、食堂というよりクラブハウスといった趣の気持ちの良い空間だった。ガーデンチェアやテーブルがたくさん置かれている。「ここで平気? 終わったらすぐ戻るからね‥」と一旦は消えた Ahmed だったが、数分後にかわいい女の子と一緒に戻って来て、「友達がね、今話し相手になれるっていうから連れてきたよ‥!」と云うと、いそいそとすぐまた去って行った。
 

彼を待つ間はそこで本を読むか、物書きでもしようと思っていたが、その女の子 Fatima が目の前に座ったので、おしゃべりを始める。すると、間もなく彼女の彼氏くんが現れ、他にも彼らの友達らしき数人の男女が「こんにちはー。なになにー?」と寄って来て輪になった。「ね、モロッコで付き合うってどんな感じなの?」とか、「将来はどんな仕事がしたいの?」とか、「日本についてはどんなイメージ?」など聞いてみながら、フランクな会話を楽しんでいるうちに、物珍しいのか、そのうちさらにぞろぞろと人が来て座り始め、囲まれてしまう羽目に‥。「あれ、どうしよう‥。別に講師でもなんでもないのよ、ただここで友達を待ってるだけの旅行者で‥」と云いつつも、いろんな子たちとおしゃべりできて、なかなか面白い時間を過ごせた。「サムライって、まだいるんですか?」とも聞かれたっけ。そのうち数人から「日本からメールもらえますか?」とアドレスを渡されたりしてるうちに、Ahmed が迎えに来てくれた。
 

午後は「せっかくだし、Tetouan のメディナへ行こうよ! 案内するよ!」と Ahmed が申し出てくれたので、行ってみることに。そして、連れられるまま、そのスーク(市場)の迷宮ゾーンへくねくねと侵入していった。陶器、木工、食品、絨毯、衣装、バブーシュ、貴金属‥数々の店がキラキラズラ〜リと連なるものの、特に買い物したいわけではなく、雰囲気だけ体験するつもりだったのだが、しばらくすると、こ、これは‥というぐらい物凄い人混みになってきて、酔いそうになった。逆流の波もあって混沌とした中を、出口までしばらく揉まれ続けるうち、途中で一瞬だが Ahmed を見失なってしまい、もうかなり焦ったので迷子にならないように、と、スリにも合わないよう注意して歩き続け、ようやくメディナから出た時にはどどーっと疲れを感じてしまった。まぁ、ああいう神経を使う散歩はもういいかな‥。
 

帰り道、海沿いの通りに出ていたいくつかの露店で夕飯の買い出しをし、アパートに戻る。そこからは Ahmed とモロッコ音楽談義( Andalusi, Berber, Gnawa, Joujouka, Pop modern, etc.. )をしつつ、彼のコレクションのたくさんのカセットテープ(!)を聴かせてもらいながら、新鮮な小イワシをたくさん捌いて、そこにトマト、じゃがいも、クミン、ニンニク、生姜、塩、コショウ、パセリを加えたタジンを一緒に作り、横でそれができあがるのを文字通り、首を長〜くして待っていた Abdelali と Jahid と4人で楽しく食べた。家庭的でおいしいタジンの作り方をずっと誰かに教わりたいと思っていたが、ここでその念願がかなったし、もちろん味は最高においしかった。
 

さて、その翌日はもう Casa に戻らなくてはならなかったのだが、Abdelali が授業もないし、心配だから‥と Tetouan まで付き添ってくれることに。ターミナルではやけに人がごった返していたのだが、「僕が行った方が早いだろうから、ここで待ってて!」と、代わりにさらりとチケットを買ってきてくれたし、Casa 行きのバスに乗り込み、席に着くまで見守ってくれた。
 

「日本で会える友達ができるなんて、ホントうれしいよ。気をつけて帰ってね」

「いろいろ本当にありがとう。それじゃあまた東京でね!」
 

そういって手を振り合って、別れた。
 

通路の補助椅子まで使われて、完全に満席のバスだった。右手後方の窓際の席でいつものように外を眺める。海沿いの Tanger_タンジェ、 荒々しく波の打ちつける Asilah_アシラ、そして Sale_サレ や首都 Rabat_ラバトを経由しつつ南下してゆく。Casa までは7、8時間ほどの道のりだ。
 

夕暮れの Rabat を過ぎ、だんだんと暗くなってきた。そろそろ到着だな‥という頃、ひとつ前の列の補助椅子に座っていたやや強面の中年男性がチラチラとこちらを見ながら、彼のさらに前にいる人とコソコソ話をしていた。なんか、ちょっとやな感じだな〜‥と思いつつ、気にせず見ないようにしてたら、そのうちその男性がいきなり、くるりと体の向きを変えて話し出す。
 

「おぅ、あんた、フランス語わかるか? Casa に着いたら、今夜はどこに泊まるんだ? ホテルは決まってるのか?」

「いいえ‥ このあとは空港に行くんです」

「空港? 夜なのにか? 実はだな、前に座っているこちらのご婦人方が、よかったらぜひ自分たちのところに泊まって欲しいと云っている」

見ると、左斜め前方で、若い20才ぐらいの女の子がうかがうようにこちらを見ている。横に座っているのは彼女の母親だろうか? 車内もすでに薄暗い中、よく見えないが。

「それはご親切ですね‥。でも、飛行機が明朝とても早い便なので、今夜中に空港に行かなくてはならないんです」

「そうか‥、どうしてもダメなんだな?」

「ええ、残念ですが‥」
 

そう答えると、彼はまた前に向き直り、その女性たちに今こちらが云ったことを話している様子。すると、伝わったようで、その女の子も残念そうな顔をしながらも、こっちを見て微笑んでくれた。その時は、「ふぅん‥なんか親切だなぁ、ただ同じバスに乗り合わせただけの旅行者に‥。でももしほんとに泊まるところを探していたら、行ってみたかもな〜」‥などと思ったのだが、これも今思えばたぶん、例のイスラムの教えにあるという「旅人には親切にせよ‥」に沿うための申し出だったかもしれない。ところで、これを彼ら自身の「善行を積むため」だと捉えてしまうと、やはり「見返り」の範疇に入ってしまうのだろうか‥?
 

少し経ってから、このことについて思い返して熟慮してもみたのだが、もし互いに嫌な気持ちでなければ、今度またいつかこういう親切を受けた場合は、甘んじて受けるつもりだ。それと、逆にもし自分が誰かに何かしてあげたくなった時は、宗教など関係なく、素直にそう申し出れるような人でありたいところ‥。けれどまぁ今回のように、まったく見ず知らずだというのにいきなり宿泊の申し出を受ける‥というのは、かなりレアなケースのようにも思うのだが、さて、どうだろう‥?
 

Casa に到着すると、そこはどうやら鉄道駅のようだった。空港へ行くまでにまだ余裕があったが、その構内でたまたま荷物の一時預かりを見つけたので、ほんの数時間、その重いバックパックを預けることにした。レトロ様式のウッディなカウンター越しに引き換え札を受け取り、振り返って歩き出すと、ちょうど、あのバスの中の女の子が少し離れたところを通り過ぎて行くところだった。彼女もこちらに気づいたので、「さようなら!」と大きく手を振ると、女の子はうれし恥ずかしそうに照れ笑いして小さく手を振り返してくれた。それから、プチタクシーで馴染みのある少し先の安宿街まで行き、食堂でゆっくり夕食を摂ったり休憩してから、またプチタクシーで駅に戻って荷物をピックアップ。そして最後は、安全のために鉄道ではなくグランタクシーに乗って、深夜の空港へと向かった。
 
 

さて、楽しみにしていた東京での Abdelali との再会だったが、至極残念なことに、結局、それが叶うことはなかった。
 

たしか、その旅から戻って、すこし過ぎたばかりの春頃のこと‥。それは、まったく不可解で突然の訃報だった。ある朝、兄の Ahmed がちっとも起きてこない弟に気づき、その後すぐ病院には運ばれたらしいが、時すでに遅く、助からなかったそうだ‥。医者からは検死解剖をしないかぎり原因はわからないと云われたようだが、そうすることは、家族が拒んだらしく‥。電話口で妻のMさんは、葬儀には間に合わなくても、最後に一目会えるかもしれないので、これから急いでモロッコへ飛び立つところだ‥と話した。Abdelali から「もしMと会えそうだったら、手渡してね」と彼女宛の手紙を預かっていたのだが、帰国して家に帰ったらすぐに読めるようにと、現像したての写真もいっしょに郵送した。
 

それからまたしばらくして夏も終わろうとする頃、以来、ずっと音沙汰のなかった Ahmed から手紙が届いた。そこには小さなちいさな字で、返事が遅れたことのお詫びと、送った写真のお礼といっしょに、「病弱なのはずっと僕の方だったのに‥ あの朝いつもと同じように部屋に一緒にいたのに‥ 」という滲むような思いも綴られていたが、「前向きに、また勉強を再開するよ」ともあった。そうだ、そういえば「いつか物書きになって、自分の本が出版されたらいいなぁ‥」と以前、語っていたっけ?
 

彼らとは、ほんのわずかな数日を一緒に過ごしただけだったが、ふたりとも本当にやさしくて、明るくて、思いやりのある素敵な兄弟だった。旅の手帳には、Ahmed と Mさんにも送った、バルコニーで兄弟ふたりが並んで微笑んでいる写真を、ずっと入れている。これを撮った時、「彼女に会ってこの写真を見せれば、本当にここであななたちに会ったって証拠になるからね〜」「うん。彼女、かっこいい僕たちを見たらきっと喜ぶよ!」などと云って3人で笑い合った。
 
 

遠い国、遠い場所‥。あれから時間もずいぶん経ったし、Ahmed に会うことももうないだろう。でも彼の手紙にも書かれていたように、Abdelali のことも、彼らと共に過ごした時間も、やさしさの連鎖‥のようなものとして、しっかりとそれぞれの心に刻まれている。